竹中労さんの思い出(18)

 エッセイを書き連ねる前に、皆さんに悲しいご報告をしなければなりません。つい先日、私の方にも連絡が回ってきたのですが、労さんの沖縄の友人として、島唄の神様として、多大な影響を多くの人に与えた嘉手苅林昌さんが亡くなったとのことです(;_;)。肺ガンという診断なのですが、つい先頃まで元気にされていたという情報も入っていたこともあり、全く寝耳に水という状態でした。もうあの唄を間近に聴くことができなくなってしまうと思うと、残念でなりません。
 別れの音楽会の時、私は舞台裏と楽屋の間を行ったり来たりしていまして、その際嘉手苅さんについてとある注意をスタッフの方から受けました。『嘉手苅さんに言われたことで、ちょっと変だなということがあっても、自分たちで判断しないでその通りにしてあげなさいよ』とのこと。一体どんなことなんだろうと思っていたら、しばらくして嘉手苅さんが自分の前に置いてある灰皿を指さして一言。

『これは後で吸うから取っておいてください』

 見ると、もう短くなって吸うというほどの長さでないタバコの吸い殻が。もちろん私たちは、その辺の事情を知らず、灰皿を始末しに来た別のスタッフを強硬に押しとどめ、その吸いかけのタバコを守ったのでした。その後、本当に灰皿からタバコを取り出して吸い出したのを見て、あそこでこのタバコを捨てられていたらどんなことになっただろうかと思ったのを覚えています。

 さて、話を戻しまして会場決定その後の話ですが、会館との打ち合わせとか案内状の送付などの仕事を手伝いました。その作業があったのがちょうど8月のお盆のころで、休みを無理なく取ることができてラッキーでした。それでも9月に入るといろいろ忙しくなり、当日の台本を印刷するなんてことまでやっていました。今考えると、静岡と大船の間を結構往復していたのですね。でも、当時は全然大変だとは思ってませんでした。会合などでいろんな人と一緒に仕事をしていると思うと無性にワクワクしましたし、裏方仕事でもやる人がいないとできないということで、やりがいもありましたしね。

 ところがその後、大変なことが起こってしまったのです。といっても私自身のことでコンサートそのものに関することではないんですけど(^^;)。しかしあの時は本当に参りました。9月19日ですから一日前、すべての用意をして必要物品も車に積み、打ち合わせ場所の浅草目指して出発したのですがいきなり東名高速が通行止めになっているんです。当時の台風18号、確かりんご台風と言われた奴だと思うのですが、これが箱根周辺を直撃しまして、国道に降りても箱根を越えられない。午後1時頃に出発して、打ち合わせ時間は夕方の5時だったのですが、もう全然進めないのですよ。とりあえず御殿場付近の国道246号線で待ち続けたのですが全く動く気配がありません。午後9時頃まで待ったものの状況はよくなる気配すらなく、国道一号線の三島まで迂回しました。その後、一号線の箱根新道だけが開通し、何とか静岡県を抜けたのが翌日の深夜1時というものすごさ。とてもじゃないけど浅草のホテルまで行けないので、会場のある川口へと車を走らせました。そこからは順調で午前4時にリリアホールに着いたのですが、当然のことながらだーれもいません(^^;)。もしかしたら熱狂的なたまのファンがいるかと思ったのですが、そこまで力入れて来ている人がいなくてホッとしました。しかし、こんな状態でこれからコンサートの仕事をやるのかと考えたら恐い恐い(^^;)。打ち合わせもできなかったし、一体どうなっちゃうの状態です。でもまあ、一日経てば終わるさと思い直して、少しの間ではありますが車の中で仮眠を取ることにしたのです。(99.10.12)


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