竹中労さんの思い出(16)
故人を偲んで追悼会を催すのに、どうして『別れの会』ではなく『別れの音楽会』なのか。それは、労さんが音楽が好きで、個人的な好き嫌いの範疇で持ち上げたり、けなしたり、肩入れしたからでしょう。手元に、『ミュージック・マガジン』1991年、7月号があります。ここで中村とうよう氏が、労さんの追悼にかこつけて、積年の恨みを晴らすような(って、本人がそう書いているのです(^^;))文章をお書きになっています。同じ『ミュージック・マガジン』の1986年9月号での連載中断について思いの丈を吐き出しているのですが、真実はどうだったのか、ここで問題にするつもりはありません。ただこの文章を読んでいて、労さんと中村とうよう氏との根本的な音楽観を実感することができました。その部分を引用してみます。
キューバ旅行に関して、いま朝日文庫で出ている『美空ひばり』に<キューバを訪問したとき、ひばりのレコードをみやげに持っていったところ、同行した音楽家の中村とうよう氏から、「もの笑いの種になる」ときついお叱りを受けた>という記述がある。まずぼくの肩書きを”音楽家”としているのからしてヘンだが、この文章が、インテリはひばりをバカにしてきた、ということの一例として出てくるのはぼくにとっては大いに迷惑だ。
(ミュージック・マガジン 1991年7月号『とうようズ トーク』より引用)
確かに中村とうよう氏の迷惑はもっともなことでしょう。しかし、とうよう氏は気付いていませんが、氏が引用した部分には、労さんなりのとうよう氏への敬意が隠されているのです。それがヘンな肩書きとしての『音楽家』なのです。
朝日文庫から出た『美空ひばり』は、ひばり本人が亡くなる前と後に二種類出ています。とうよう氏が問題にした部分というのがもし著者の誤植だとしたら、後に出た増補分で修正が加えられていてもおかしくはないでしょう。でもそのままということは、やはり何らかの意図があったと見るのが自然です。
音楽家というのは、果たして音楽を演奏する人のためだけに使うことを許された肩書きでしょうか。いろんなところで喋ったり、文章として書いたり、実際の音楽活動をしている人を様々な面からサポートし、新しい音楽状況を仕掛けていく人たちのことも音楽家と呼んでしまってもいいのではないでしょうか。音楽・芸能ジャーナリズムがその対象とする音楽や芸能がなければ成り立たないと言うことは自明の理です。そうした労さんの敬意が分からないばかりか、音楽家の立場をおもんぱかる考え方はなく、評論家としての意識が強すぎるとうよう氏の方が私にはヘンに見えるのですが。
さて、第一回目の実行委員会は、東京新宿の談話室滝沢、しかも特別室で行われました。この喫茶店は普通に入ってもコーヒーが一杯千円という、すごい値段で出てくるところ。その特別室なのですから、ファミリーレストランで250円のコーヒーを飲み慣れていた田舎者の私としましては、始まる前からそうそうたる顔ぶれに威圧されてしました、正直なところ。
話し合いはまず、出演者をどうするかということから始まりました。沖縄・奄美の島唄の歌い手さんは決まりでしたが、問題は最後の本の題材となった『たま』をどうするかということ。実行委員のお歴々の方々は、あまり『たま』の出演に乗り気ではなさそうでした。積極的に出演させたいと思っていたのは、アシスタントの方と、たまの本で関わった女性、それに私の3人ぐらいではなかったかしらん。私はこれまでにも書いてきたとおり、ファンとしては年期が入ってはいません。しかし事務所で、たまの本を読んで竹中労のファンになったという、おびただしい数のファンレターの山を見ました。あの本には賛否両論ありましたが、労さん自身がたまの音楽に興味を覚え、ファンとして肩入れした証としての本です。評論家と名乗る人にはとうてい書けないものです。何よりも、たまの本を読んだ人たちにも来てもらいたいとアシスタントの方が考えていたのが決め手になり、実行委員会で『たま』に出演を要請することが決まりました。ただし、混乱を避けるために、当日までたまの出演については公表しないことも取り決めたのですが。
次に決めなくてはならないことは、会場と日程です。日比谷野音を皮切りに、大きいところは私が問い合わせたところで、どうなるものでもありません。この点については、こちらの方で地道に情報収集を続け、可能ならば実行委員会のお歴々の方のコネで会場を確保できればと言う二通りの方法です。そんな話をして第一回の実行委員会は終わったのですが、こちらとしては終始圧倒されっぱなしでした。(16)おわり
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