竹中労さんの思い出(12)

 車は順調に進み、あまりに順調に来てしまったらしいので、途中で休息となりました。その合間を縫って、今後のことについて皆さんが話をしています。内輪だけのお別れの宴は持つが、それだけでは他の人たちに申し訳ない。ただ、本人から葬儀の類は一切無用との遺言があるので、時期をおいて『別れの音楽会』というものを開く意向だということでした。準備のために、場所を決めなければならないが、労さんが初めて行った『琉球フェスティバル』が日比谷野音であったので、そこでやろうとか、いっそのこと日本武道館を借りて、どこかのテレビ局と契約を結び、放送してはどうかなどと私から見るとものすごい大きな話をしています。

 そうして、再び出発したのですが、なかなか斎場に着く気配がありません。斎場というよりも、住宅街に向かって入っているような感じなんですね。そんな時、側近の中のご意見番という立場の方がこう話されるのが耳に入ってきました。

「斎場の周りが住宅地なのではなくて、昔斎場だった場所まで住宅地ができてしまったんだよ」

 まさにそう言うことなんですね。桐ヶ谷斎場はそんな場所にありました。もしかしたら、テレビのワイドショーの取材が来ているかと話をしていたんですが、全くそんな感じではなくて、ほっとしたというのが正直なところでした。斎場には死に目にあうことができなかった親族の人たちも来ていたということですが、誰がどれとは私にはわかりませんでした。棺の前で一人一人が献花した後、弔辞が読み上げられます。余韻に浸る暇もなく、棺はゆっくりと中に入れられ、蓋が閉められました。いよいよ、労さんが骨になるのです。それまではだいたい一時間ぐらいかかるというので、二階の座敷でビールを飲みながら待つことになりました。改めてそこで、労さんのことを新聞が訃報欄でどう伝えたのか、まだ見ていない人のためでもあるということで様々な新聞が私たちの周りを回っていきます。

 いろいろ見ていくに連れ、それぞれの違いというものが感じられます。産経新聞は挑戦的で、スポーツ紙は、おおむね友好的というのが非常に興味深いことでした。このようにインターネットで文章が自由に発表できて、長い間でも残っていく時代とは違い、一回読んだらすぐに読み捨てられ、省みられようとしないストリートジャーナリズムに携わる人たちにとっては、私などとよりも竹中さんに対してのシンパシーが強かったんでしょう。そう言う意味からも、ダカーポに連載していた『ルポライター入門』の未完は残念です。アシスタントの方が、絶筆となった原稿をダカーポの担当の方に渡していました。以前出版された『ルポ・ライター事始』(81年、ジャーナリスト専門学院)は現在では入手が難しかったのですが、ダカーポ連載分や各種資料も加えられて、ちくま文庫から決定版とでもいう形で復刻されたのは嬉しいことです。何よりも手軽な値段で読める状態であることが、これから手にするだろう人にとっての福音になるはずです。

 しばらくして、下の階から呼び出しがありました。係員の人が、骨を集め、磁石を使って棺の釘を取った後、骨を拾うこととなりました。前回にも説明しましたが、労さん本人の遺志を尊重しようとした事務局の人の意向で、仕事仲間である私たちの方が親族よりも先の順番ということになりました。骨はピンク色をしていてとってもきれいでした。こうして終わった竹中労さんの出棺、最後に一つ付け加えておきたいことがあります。労さんは、強い者についてはすごい剣幕でまくしたてるのですが、弱い立場の人たちに対してはとても優しいのです。この時の葬儀に携わった方は創価学会の人たちで、ほとんど実費で火葬場の手配等を引き受けてくれたそうなのです。以前書いたことがありますが、調子のいい時にはすり寄ってくる人々も、調子が悪くなったりすると、手のひらを返したように冷たくなったりすることがよくありますね。創価学会の上部の腐敗についてはかなり激しいことも言っていたようですが、一般の信者はまじめな人が多いと、労さんは優しい目を向けていたようでです。それをしっかり感じ取っていた方がいて、亡くなった後にもしっかりフォローする。当然といえば当然のことなのですが、ちゃんと実行する人は、それほどいないでしょう。個人的にも、恩を受けたことを忘れることだけはしたくないですね。そんなことを今になって思います。

(12) おわり


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