竹中労さんの思い出(8)

 1991年4月の始め、私の元に一枚のハガキが届きました。先日の風の会に出た人達全員に出したのであろうハガキでしたが、もはや時間のない物書きに何が出きるのか、そんなことを考えた上でのお願いが書かれていました。とてもじゃないけど書き下ろしは間に合わない、そこで労さんと親交の深い井家上隆幸さんの提案により、スピーチを原稿に起こして本人に校正してもらおうとテープ起こしの依頼、様態の急変に備えた都内への引っ越しの手伝いのお願いが書かれていました。

 ハガキが着いたのが2日の昼で、間髪入れず私は事務所に電話しました。本来はテープ起こしをするソースを送ってもらうという手順が必要になるのですが、幸いにして私の元には風の会のプライベートテープがあります。別に必要なものは新たに送ってもらうにしても、差し当たってすぐに作業に掛かり、出来たものから送ります。それと入れ違いに、新たなテープが送られてきます。そんな中、4月6日沖縄へと出発。無事に戻れるかどうか、全くわからないと沖縄の消印のハガキが着きました。しかし、テープ起こしの量が膨大にあるので、それほどセンチメンタルになることなく、淡々と作業を続けていました。

 実は、労さんは沖縄取材の日程を、ダカーポの「ルポライター入門」(ちくま文庫の『ルポライター事始』の中に記載あり)で詳しく書いていました。が、東京に帰ってきたのか、沖縄にそのままいるのか全くわかりません。悶々とする中、27日に電話がありました。本当に奇跡的に沖縄から帰り、現在は口述でいろんなお仕事を続けているということでした。そして、引っ越しを29日にやるから手伝いに来てくれとのこと。一も二もなく承知しましたが、後から聞くと手伝いの依頼に返事をし、実際に作業にかかったのは、風の会の参加者の中では私ともう一人の男性だけだったということです。あとはすべて、『「たま」の本』で労さんを知った中学生から20代にわたる女の子の熱心な読者だけだったという由。『「たま」の本』なんてものを書くよりも、大杉栄や日本赤軍を書けと主張した人達、ガンに負けず頑張ってくださいと書いた人達。あなたたちよりも、かわいらしい女の子たちの方が、最後の最後まで労さんのことを想っていたのです。『「たま」の本』は書かれるべくして書かれたのだと今になってはしみじみ思います。

(8)おわり


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