竹中労さんの思い出(7)

 風の会で、単なる参加者でしかなかった私でしたが、1990年12月の会合のちょっとしたきっかけで、事務局の方と親しくなることになりました。いつも事務局の方が会の内容を録音して販売しているのですが、たまたまその時に何らかの拍子で録音に失敗したらしく、私の録ったテープをダビングさせてくれないかというお手紙が来たのでした。もともとパソコンにはまる前から機械ものが好きなのですが、もし私が機械ものが好きでなかったら、今こうして労さんのことを書いてはいないでしょう。早速ダビングし、事務局のところへ郵送しましたが、翌年からちょこちょこ手紙のやり取りをするようになったのでした。

 折しも、1月17日に臨時ニュースで湾岸戦争の開戦を知らされました。その後の労さんは「情勢分析は最も悲観的に」という考えに基づいてかなり悲観的な展望を雑誌に書いています。幸いなことに、最悪のシナリオは回避されましたが、いまだにアラブ諸国とアメリカ・イスラエルとの間には困難な問題がくすぶり続けています。そんな中、私たちは世紀末をどう乗り越えていけばいいのか、その先に夢はあるのか。91年に入っての初めての風の会は、3月21日に行われました。しかしそこに、労さんの姿だけがなかったのです。

 その日はそんなわけで、何やら暗い雰囲気で会が始まりました。体調が思わしくなく、在住の鎌倉から会場まで出て来れないとのことでした。司会の方から、労さんを勇気づけるために一人ずつ何かを書こうという提案があり、紙が回っていきます。私の所まで紙が回って来て、他の人がどんなことを書いていたのか見ると、そのほとんどが「ガンに負けないで頑張ってください」という内容でした。労さんはそれまでの発言や文章の中で、「ガンと共生し」、「命の〆切まで生きぬく」というような境地で残りの人生を生きているのだと私は思っていましたから、こんなものを読まされて、一番辛くなるのは労さん自身ではないかと思い、「できることがあったら手伝います」というようなことだけを書いて、早々にその場を後にしました。現状では何もできない自分がただただ歯がゆくて、たまたま同じ会に出席していた人の中で、労さんのアシスタントと連絡を取り合っているという人に声をかけ、何か連絡があったらこちらにも教えてくださいとなりふり構わず話をしていました。

 その後、3月24日に緊急入院。その際、余命一ヶ月との診断が下されたそうです。しかし、そんな中で労さんは手配済みだった沖縄取材旅行を強行しようとする。そうしたことの起こっている最中に、一枚のハガキが私の元に届きました。まさしく、その後の私の行動を左右するような内容でありました。

(7)おわり


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