竹中労さんの思い出(6)

 1990年から1991年にかけては、今考えてみると本当にいろんなことがあったという感じがします。東京でしか放送がなかったテレビ朝日「金曜プレステージ・ニュースバトル」のレギュラーとしての労さんを初めて見たのが1990年の三月。同局の「朝まで生テレビ」と比べて、何と興味深い番組であったことか。「朝まで生テレビ」に限らず、テレビの悪いところは、とにかく大きな声で自分の意見を声高に喋ったもの勝ちというところでしょう。視聴者が眠くなった頃を見計らって大島渚氏が「バカヤロー」とどなることになっているという噂がありましたが、そんな噂も全くのガセネタとは私には思えません。後に「朝までナメてれば」と言う題名で松尾貴史さんに参加者全員が顔真似でパロディにされましたが、まったくもってそれだけのものであると金曜プレステージ(以下・金プレ)を見た私としては思ってしまいました。

 金プレの斬新なところは、朝生に比べると出演者の数も少なく、とにかく一つの意見を言い終わるまで他の人は待っていて、時間の許す限り議論をしようとする意図が見えたところでしょう。司会のラサール石井と中村あずさはいい人選だったと今更ながら思います。司会が率先して自分の意見を言うこともなく、議論が白熱して険悪な雰囲気が出てくる前にさっと芽を摘み取ってしまう。しかし、一回だけ例外がありました。ゲストで現在はどこの政党に属しているのか私の不勉強のせいで存じ上げないのですが、柿沢なにがしという代議士が登場したときです。まともに議論をしようとしない(と私にはどうしても感じられた)代議士に対して本気で労さんが頭にきてしまったのか怒鳴りまくり、もうこんな番組には出演しないとブチ切れてしまったのです。テレビを通してみる労さんの姿は、その頃自分がガンであるということを公表していたこともあり、かなり痩せていたのですが、喋り出すとそんなことを忘れてしまうぐらいすごい迫力で、当の代議士もたじたじでした。大人げないと後で雑誌の連載に書いていましたが、実際現場では冷静でいられなかったのでしょうね。

竹中労さんのサイン その後もテレビ出演は続き、ひょんなことから「イカ天」で人気者になった四人組のグループ「たま」の本を書くと、テレビの番組で喋ってしまったことで、『「たま」の本』を書く仕事ができてしまいました。五月ぐらいにそんな話があって、実物を私が手にしたのは十一月の半ば。出版直後の風の会の案内には、次回のテーマが「たま」と書いてありました。風の会の参加者は、アナキズムを研究するという名目からも分かるように、全員が労さんの「たま」に傾倒しているのをこころよく思っていなかったと思います。「たま」についての本を書くよりも、大杉栄のことや、日本赤軍との関係を書いて欲しいと思っていた人の方が多かったのではないでしょうか。しかし、労さんは自分の余命を感じとり、その流れに委せた成りゆきを楽しんでいたような感じがあります。講座を行うにあたっての下準備として、どう考えても「たま」の音楽に合わないパネリストにテープを事前に送りつけ、当日はその感想を全員に喋らせてからが労さんの真骨頂。いつもの通りの長口上が始まります。私自身と「たま」との関係は、偶然にもインディーズのアルバム『しおしお』『でんご』を購入する機会に恵まれ、テレビなども割と多く見させていただいていたので、今までのどの会合よりも興味深く聞かせてもらいました。会が終わった後、恐る恐る本を持っていってサインを頼みました。すると、「誰かにあげるの?」と言われ、あわてて、いやこれは自分用ですので、私の名前を書いてくださいと改めてお願いし書いてもらったのが写真のサインです。その日はそうした勢いもあってか、二次会までなだれ込み、二次会終了後、何とその日のゲストだったルポライターの朝倉喬司さんと私の三人でタクシーに同乗し、東京駅までご一緒しました。車の中で労さんは、来年は本格的に歌の本を書く。上々颱風(現在も大活躍中のポップバンド)のリーダー、紅龍さんにインタビューをしたいと私たち(と言っても主に朝倉さんにでしょうが)に話をしてくれました。それを聞いた私は感激のあまり、来年は自分も、できる限り労さんのことを追いかけてみようと決意したのでありました。

(6)おわり


その(5)へ

その(7)へ

竹中労さんのページに戻る

ホームへ

ご意見、ご感想をお寄せください

mail@y-terada.com