竹中労さんの思い出(5)

 「風の会」での労さんは、書かれたものを読む以上に話を聞くことが面白く、ここにおいて全く参ってしまったのでした。早速月に一度の講座には録音機を持っていくことにし、雑音が入らないように一番前の席でメモを取りながら話を聞くようになりました。話の内容は、世界情勢の話から、芸能・映画の話、おまけに過激派の面目躍如という類の話。私の他にも、会の内容を録音している人がいましたが、その中にはもしかしたら過激派対策の警察関係者の人がいたのではという話も後になって聞きました。ということは、私の一連の行動も胡散臭い目で見られていたのかなと今になると思いますが、当時全くそう言うことに鈍感だったので、ただただその日の内容を帰りの新幹線の中で聞き直して一人悦に入っていたのでした。ある時、労さんが会場に向けて質問を発したことがありました。確か、長崎市長が刺された事件の余韻が残る頃だと記憶しているのですが、「昭和天皇に戦争責任はあるか」というものでした。その頃の私は正に坂口安吾の書くものを貪り読んでいた頃だったので、安吾の論そのものに、天皇はそれほど深く命令をしていないのなら、責任を全て天皇に押しつけるというのは酷ではないかと考えて、戦争責任がない方に手を挙げました。その直後、何か周辺の様子の違和感を感じたので、恐る恐る後ろの方を見たところ、参加者の中で手を挙げていたのは私だけだったのでした。その後、労さんが解説をしてくれたのですが、「当時戦争を遂行したのは個人の意志ではなく、社会の勢いによるところもある。そう言った意味では天皇といえども、その責任を当時に生きた一人の人間として免れ得ぬものではない」と言われ、「戦争責任」という言葉についての私の認識の甘さというのを思い知ったのであります。会が終了した後に、二次会と称して会場周辺で懇親会らしきものをやるのも風の会の特徴でした。全く周辺には面識のある人がいない中で、二次会まで顔を出すというのは勇気がいることでしたが、なぜか最初に行ったときには、つい二次会に参加してしまいました。しかし、労さんの回りには常に活動的な人達が取り巻いていて、とても私なんかが出る幕はありませんでした。その結果、しばらくは二次会に出ることなく会場を後にするのが常になってしまったのですが、今考えるともっと積極的に行っておけばよかったかなと思います。

ダカーポ「テレビ観想」 そうこうしているうち、突然に雑誌『ダカーポ』に労さんの連載が始まりました。『テレビ観想』と題された文章は、まさしく以前中止されてしまった新雑誌Xでの「三粋人テレビ談語」でした。これで隔週とはいいながら労さんの文章に触れることができるとダカーポを買い始めたのが1989年4月のことです。美空ひばりの訃報が6月に聞かれ、ワイドショーの画面に労さんの姿を見ることができるようになります。その後、TBS・東京放送での深夜番組・「イカ天」についての文章が紙面を賑わし、「たま」の歌についていろいろと書かれているのを横目で睨みつつ、当時まだ静岡地方ではイカ天の放送がなかったので歯がゆい思いをしていました。しかし、テレビと同時進行で労さんの話を聞いたり、書いたものを読んだりできるようになるとは全く思っていませんでしたから、風の会の方には更にのめり込んでいくことになりました。

(5)おわり


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