竹中労さんの思い出(4)

 「風の会」での労さんのことを書く前に、労さんが亡くなってから一年後に突如現れた、別の「風の会」のことをまず書いておきます。たまたま、テレビのニュース番組を見ていたら、参議院選挙のために旗揚げした新右翼の政党の記者会見の模様が映し出されていました。名前が「風の会」というのにはびっくりしましたが、その政党の代表が野村秋介氏というのにはまたまたびっくりしました。野村氏の隣には、これも今は亡き横山やすし氏が大写しになっています。野村氏は、生前の労さんと対談したりイベントに同席したり、主義主張は相いれない部分はあるものの、それなりにお互いの行動を尊重しながら行動をしているように思っていましたが、ちょっと気になったのですぐさま事務局のところに電話しました。

「野村秋介さんに『風の会』の名前を売っちゃったんですか」

 それに対する答えは、断固として否。事務局の方でも寝耳に水の出来事だったとのことでした。そう言うことだとしたら、なおさら腹が立つというもの。労さんの「風の会」の名前でおそらく野村氏のところにも生前案内が行っていたのは疑いのないところで、本人が存じ上げていたのかどうかは今になってはわかりませんが、真似をしたと言うよりも本人が亡くなったのをいいことにしての無断借用ではないかと私たちが色めき立ったのは当然のことでした。早速文書で問い合わせたところ、「そんなことはありません。野村氏と竹中氏とは生前仲が良かったのだから、是非今回の選挙を応援して欲しい」との返事が届きました。それを見た私たちは、ますますストレスが溜まったのでした。

 そうした私たちの気持ちを知ってか知らずか、野村氏の「風の会」は『週刊朝日』で「虱(しらみ)の会」と揶揄されたことでの大抗議行動でまたまたマスコミを賑わします。結局朝日側の謝罪と言うことで決着が付くのですが、上記の事情があるので、私なんかはごくごく冷淡に眺めていたわけです。その後、実はこちらの方が以前から使っている名前であるのに、新聞に会合の告知の掲載を申し込もうとしても、今までは問題なく掲載されていたのがなぜか断られるようになってしまいました。野村氏の「風の会」のイメージがあまりにも強いので、下手なかかわり合いになりたくないと新聞社の方も考えたのでしょう。そんな野村氏も大騒動の末、自殺してしまいました。そんなわけで、ここで使う「風の会」というのは、野村氏の政党とは一切関係がなく、それより以前からある独自の講座であったと言うことは、ここではっきりさせておきたいと思うのです。

 それでは、ようやく話を戻します。風の会の会合はいつも、営団地下鉄日比谷線人形町駅で降りたそばの「かきがら町区民館」で行われていました。実は、最初に出かけたときには、何かの事情で中止になっていて、哀れ静岡から新幹線に乗ってやってきた私は、会場に掲示されている中止の張り紙を呆然としてしまったのを覚えています。でも、次回も出かけようと思って、実際に出かけたことで、ようやく労さんの実物に対面することができたわけです。

(4) おわり


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