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坂口安吾生誕百年によせて

 本日の朝日新聞「私の視点」欄に、作家で仏文学者である出口裕弘氏による坂口安吾生誕百年についての文章が載っています。安吾は小説家として世間に認知されていますが、彼の活躍していた時代、小説だけではなく社会のさまざまな事について論じていた彼のことですから、今安吾が生きていたらと思うのは出口氏だけではないでしょう。ただ、今の世の中は小説家だけでなく、いわゆるテレビに出てくるような有名人に聖人君子であることを要求します。そんな時代に安吾のような人が放り出されたら、そのあまりの放言・奇行は格好のマスコミの餌食となり、かつての岡本太郎氏のようにテレビによって消費されるだけの存在にもなりかねないでしょう。続き

 もし今安吾が目の前に現れたとしたら、これほど付きあいにくい人はいないと思うかも知れません。でも、その人の行動でそれまで書いたものが色あせることはありません。実に直球を私たちの前に投げてくるような安吾の文章は安吾流に言うと実にシリメツレツではありますが、だからこそ現代に生きる私たちの心に響いてくるのではないかと思います。

 出口氏は「堕落論」「白痴」「日本文化私観」で止まっている安吾観について、更に多くの作品の魅力についても語っています。個人的には、自殺を考えた事がある人には太宰治の入水自殺の直後に書かれたエッセイ「不良少年とキリスト」はぜひ読んで欲しいものです。それから、どうしても安吾というとエッセイしか浮かばないという方には、安吾の独断と偏見に基づいた歴史小説の数々を読まれることをおすすめしておきます。歴史小説というものは事実をそのままなぞるものではなく、いわゆる「見てきたような嘘を付く」ことで面白くなります。近年のものでも、例えばこのページでも紹介している清水次郎長の物語などは、講釈師の手による脚色が次郎長の物語を今にいたるまで魅力あるものにしているわけで、ただ単に次郎長の伝記を見たり聞いたりしたところで、あれだけ多くの人たちの支持は得られなかったことでしょう。そういう意味で安吾のシリメツレツさというのは、歴史の語りべとしては失格かもしれませんが、歴史上の人物であっても今生きている私たちと同じ人間であったのだという当り前の事を思い出させてくれます。それはとりも直さず、歴史となった昔の世界を描いていながら、今私たちの生きている社会を容易に想像させてくれることにもなるのです。社会は変わっても人間は変わらないということは、安吾が提起したさまざまな問題も今の世の中で立派に通用するということになります。百年というのは単なる一年に過ぎないのかも知れませんが、生誕百年という節目の中、多くの人が安吾の作品に触れる機会が増えてくれればと思います。

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