今日、5月19日は竹中労さんの命日でした。たまたまというか、本日の朝日新聞の夕刊に天道よしみさんのお母さんに聞いた記事が出ていまして、「全日本歌謡選手権」の事に触れ、竹中労の文字が出ていますので未見の方はぜひご一読を。私の聞く範囲では、いわゆる「○○忌」というものは行なわれていないようですが、物書きとして生きてきた人を今生きている私たちがどのように想うかということを考えてみると、やはりその人の書いたものを読んで自分の中に生かすことが大事ではないかと思います。
ここのところさまざまな事件が報道されていますが、会津若松の高校生の起こした事件について、またそぞろ、下宿を家宅捜索していたら出てきた音楽や本の類を取り上げ、「これらが犯行に影響を及ぼしたのでは」という論評が出てくる始末です。ちょっと考えてみればわかることですが、マスコミで具体的に名前が上がっているアーティストや本について、ほとんど人の目に触れないおぞましいものならまだしも、正規の流通に乗って売られているものにこうした異常な事件を結びつけて規制をする(今回の事件をきっかけにしてそうした流れになることは十分考えられます)ということが行なわれたとしたら、それはとりもなおさず「表現の自由の侵害」となるわけです。ほとんどの人は本や動画、音楽を見たり聞いたりしても実際に破壊的な行動を取ることはありません。ある人にとってはとてもグロテスクで見るに耐えないものであっても、趣味・嗜好の範囲であるというのは、こうした事件がなければ、多くの人に支持される事でありましょう。何といっても鉄道系趣味人を主人公にしたドラマがテレビのゴールデンタイムで人気が出ている時代なのです。にもかかわらず、まだまだ保守的な人たちにとっては、ご自身に理解できないような作家・作品が出てくると、強制的に排除にかかります。竹中労さんは大正から昭和にかけてのエロ・グロ・ナンセンスの時代に江戸川乱歩・横溝正史などの小説の挿絵を担当し、その一種一躍世界を演出して時代の寵児になった挿絵画家・竹中英太郎さんのご子息ということも理由にあったのかもしれませんが、宮崎勤事件で、たまたま被告の部屋にあったビデオの山の中にあったというだけで、さんざん非難を浴びたビデオ作家さんたちを擁護しました。今後の報道の進展によってはまたそぞろ、本来の殺人事件とは関係のないところでこうした不毛なやり取りがあるのではないかと思いますが、私も竹中労さんと同じように、単に犯人の部屋にあったからとんでもないものだというように、自分でその内容も確認せずに批判するような輩については軽蔑することになるでしょう。というか、いつも同じ切り口でしか事件を報道することができない人たちにはすでにうんざりしているのですが。
ところで、上に書きました竹中英太郎さんについて、その作品を展示している記念館が甲府・湯村温泉にあるのはここをごらんの皆さんは十分にご承知と思います。まだ知らない方で興味のある方について、以下に館長さんのブログへのリンクを張っておきますので、ぜひごらんいただければと思います。
アイシティkofu URL 2007年05月22日(火)02時15分 編集・削除
>「ご自身に理解できないような・・・」
同感します。
進歩は異端から始まると思っております。
だから自分の間尺に合わないものは単純に異端だとして、それを規制したり潰そうとする時代は自らが滅びていく時代だとも思っています。
英太郎の技法が挿絵印刷技術の進展ももたらしたという記述を読んだ時にはびっくりしました。こんなものは出来ないと拒否しなかった当時の出版・印刷業者さん達が素晴らしい。
英太郎さんや労さんの想いをその絵や著作から感じ、今の時代に即して考えていきたいと思っています。