2011.5.20 「なんた浜」から「島思い」へ

 

 濃密な時間を過ごし、気分が高まっていたせいなのでしょうか、翌日はホテルが朝食を提供する午前7時前に眼が覚めてしまったので、定刻に朝食を食べに行くことに。世間ではウィークデーなので、この日に仕事のある方たちで食堂は混んでいましたが何とかスムーズに朝食を終えることができました。部屋に戻ってテレビを付けましたが、沖縄と言えども朝の番組は全国的に同じようで、これが沖縄だというような実感はローカル色豊かなコマーシャル以外ありません。このままでは全く静岡で過ごしているのと変わらないと思ったので、持参したポケットラジオを取り出して地元のラジオ局を流すことにしました。やはり地元の事を知るならテレビよりラジオであることを実感しつつ、改めて昨日浴びることができなかったシャワーを浴びてちょっと早めにホテルを出ることにしました。

 というのも、昨日の状況と本日の予定から考えると、この日も一日連れまわされて普通の観光ができないということがはっきりとしましたし(^^;)、それでもお昼前までは自分で動ける時間があるので、せめてお土産だけでも物色しておこうと那覇市内のスーパーマーケット巡りに出掛けました。スーパーマーケット巡りをするのは、何も沖縄だけの話ではなく、地元の方々の生活が垣間見えるような気がして好きなためです。とりあえず一人で移動するために沖縄に唯一走るモノレール「ゆいレール」のフリーチケットを購入しました。一日券だけでなく二日券、三日券があるのですが、他のチケットとちょっと違う点があります。それは、ここで言う一日とは購入してから終電までの時間ではなくて、まるまる24時間をカウントするということです。私の場合午前10時過ぎに三日券を購入したので、使用できるのは23日の午前10時までということになります。沖縄空港からモノレールを使ってホテルまで移動する場合、帰りの飛行機の時間にもよりますが、到着してすぐに何日かの乗車券を買っても帰りの空港へ行くのに使える場合がありますので、往復の航空チケットをすでに購入している場合は最初からフリー乗車チケットを購入するというのも一つの選択肢となります。

栄町りうぼう ゆいレール安里駅で降り、駅前にある「栄町りうぼう」へ。ここは24時間営業の地域密着型のスーパーで、沖縄でしか買えない食品を買うにはうってつけの店です。ここでは波照間島産の新糖が出ていたのでまとめて購入。あとは棒ラーメンタイプの沖縄そばなど、できるだけかさばらないお土産になりそうなものを購入しました。お店の棚をなめるように見回しながら私の地元のスーパーとの違いを見つけるようにしていくと、それだけで面白かったりします。他のスーパーでも見つけた面白いことに、シーチキンの売り方が沖縄独特のものだというのがありました。沖縄ではシーチキンをあらゆる炒め物に使うようなので、どうしても大量にストックしておく必要があるということらしく、シーチキンの箱売りというものが存在します。シーチキンを作っているはごろもフーズは静岡の会社ですが、静岡のスーパーでもこのような光景は見ることができません。そんな事にびっくりしつつも買い込んだお土産をいったんホテルの部屋に持って帰り、身軽になって改めて待ち合わせのホテルにゆいレールで向かいます。フリー乗車券を使っているからこその技でした。

 約束の11時半には石原さんはすでにホテルのロビーで待っていてくれていました。本日の予定は甲府の金子御夫妻と一緒に、竹中労さんの碑の立つ沖縄市(旧コザ市)の民謡酒場「なんた浜」へ行くことになっています。金子夫妻との待ち合わせ時間が午後1時のため、少々時間もあり、昼食もまだということでホテル隣の喫茶店でランチを食べていたところ、小浜さんより電話が入り、車で迎えに来てくれるとのこと。石原さんはともかく私など完全に便乗してしまい申し訳ないと思いつつもほどなく小浜さんもホテル前にやってきました。そこから金子夫妻の宿泊しているホテルへと行きましたが、小浜さんの調達してきた車が軽自動車だったため、タクシーと併用して移動することになりました。そこで昨日もお会いした富山の竹中晃氏とも合流。合計6人で出発です。

 沖縄市にある「なんた浜」は石碑建立の来以来でしたが、その時と同様しっかりと守られていました。今回沖縄へは初めて訪れた金子夫妻はまさに感無量という感じで、ご自身が運営されているブログ用に写真を撮りまくっていましたが、石碑が光を反射することもあって撮影には苦労されているようでした。私たちが着いたのは午後1時過ぎでまだお店が開いてない時間でしたが、そこはお願いして饒辺愛子ご夫妻に来ていただき、特別に開けていただきました。私たち以外誰もいない店内で、当時の竹中労さんについての話をしているうちに、さらに今回特別にお願いして来ていただいたキャンパスレコードの備瀬善勝さんも合流し、さらに当時のお話を伺うことに。その際、前日のコンサート開幕時にスライドで投影された竹中労さんの写真のコピーを持って来られ、石原さんや金子さんは感激ひとしおといった感じでした。実は、その写真は金子さんや石原さんも持っていなかったものだそうで、それらの写真もこのイベントがなければ私たちが目にすることがなかったものでしょう。備瀬さんのお話は実に興味深いものでしたが、近いうちに小浜さんが改めて直接お話を聞く機会があると教えてくれました。近い将来、貴重なお話が活字化されることを期待したいですね。

「しまぶく」の三枚肉そば なんた浜で饒辺愛子さん備瀬善勝さんと別れ、那覇方面に進みながら、何か食べましょうかと小浜さんが連れて行ってくれたのが山里郵便局前にある沖縄そばの店「しまぶく」(沖縄県沖縄市南桃原1-6-2 098-932-0445 定休月曜 営業時間午前11時〜15時迄 売切れ次第終了)です。この店の沖縄そばは味の基準だと小浜さんが紹介してくれたので、店を入ったところにある券売機で私は「三枚肉そば」を注文。他には普通の沖縄そばとソーキソバがメニューにあります。ダシはカツオでとってあるようで、スープは実にあっさりしていている中にもコクがあるという感じで、昨日空港で食べた沖縄そばと比べるとやはり全然違いました。沖縄そばなら本部町の方にも名店があるようですが、今回の旅ではこのおそばが食べられたので十分満足しました。次回は何とか自分だけで行けるようにチェックを入れておきたいと思っています。
「原点」のアイスコーヒー
 十分にお腹を満たし、そろそろ戻ろうかという事になりましたが、食後にコーヒーでもという話になりました。那覇へ戻る途中に美味しい喫茶店があるということで訪れたのが「珈琲専門店 原点」(沖縄市山里2丁目9-31 098-932-2121 定休日曜 営業時間10時〜19時)です。閑静な佇まいの中でゆったりとした時間を過ごすのには最適のお店でした。注文は全員同じアイスコーヒーでしたが、かなり独特の出し方で出てきました。すでにシロップによって甘さがあるコーヒーの上にミルクがかかっていて、かきまぜずにそのまま飲むことでコーヒー自体の風味だけでなくミルクがからまった微妙な味の変化を楽しめるようになっています。このへんは、ホットコーヒーでもミルクを入れてかき混ぜずに飲む思想と同じです。人によっては甘いコーヒーは苦手と思われる方もいるでしょう。個人的にはシロップは入っていない方がよりコーヒーの風味を感じられるのではないかと思いましたが、これはこれで美味しくいただきました。

 ここまで金子夫妻とも行動を共にしてきましたが、一応これで予定していた日程を消化したということで、ここで散会することに。ご夫妻は翌日沖縄を発たれるということで、この旅の中では以降お会いすることはできませんでしたが、私の場合は甲府の竹中英太郎記念館までは車ですぐ行けるということもあり、改めての再会を約束してのお別れとなりました。さすがに竹中さんもお疲れの様子だったので、滞在中のホテル近くで小浜さんの車を降りられちょっと休憩するとのこと(^^)。私と石原さんは小浜さんに那覇の国際通り近くまで送ってもらうことに。実は石原さんは沖縄へ来る際、行きの飛行機のチケットのみを予約してここまでやってきたということを聞いていました。昨日の到着後ホテルをその場で手配して、この時点ではいつ帰るのか全く決まっていなかったのでした。私もかなり旅慣れているつもりですが、さすがに行き帰りの航空チケットとホテルの予約だけはやってきたので、こうした豪快な旅というのはちょっとした憧れがあります。小浜さんには国際通りにある沖縄ツーリストの前で降ろしてもらいました。ここで状況を聞きつつ帰りの飛行機のチケットを買うことにしたのです。

 翌々日の日曜日(5月22日)は小浜さんは参加者を募っての古城めぐりツアーを主催されているとのことで、石原さんも行くなら定員の1人くらいは何とかなりますとのことだったのですが、さすがに古城をめぐるには体力が半端なく必要であるということもあり、翌日の土曜日の夕方の便で帰ることを石原さんは一気に決めてしまいました。この辺の決断力の強さというのも脇で見ていて唖然としたのですが、その行動力たるや私も見習わなくてはと思うほどでした。石原さんに羽田から自宅最寄り駅まではどうするのかと聞いたら、羽田からの直通バスが出ているので大丈夫とのこと。こうなっては明日石原さんが沖縄を離れるまでお供しないわけにはいきません。国際通りの沖縄ツーリストは、沖縄県庁に近いところにあったため、少々歩いて専門店が集まる商業施設、パレットくもじ前の広場まで行き、そこで石原さんを待たせたまま、まだ未入手だった昨日のコンサートの記事と、竹中労さん関連の小浜さんが書いたコラムの載っている当日の新聞を昨日行ったばかりの琉球新報社へ行き、買って改めて読むことに。昨日のコンサートの事が社会面にステージの写真とともに掲載されていて、小浜さんの連載コラム欄に、竹中労入門とでも言うべきコラムが掲載されているのを読みながら、今後の行動について打ち合わせをすることに。

段差のない那覇市内の歩道 石原さんはレコード店と書店へ行きたいとのことだったので、パレットくもじからすぐ行けるゆいレールの県庁前駅からモノレールを使い、美栄橋駅からホテルまで歩く途中にレコード屋さんと本屋さんがあるので、ここはあえてタクシーを使わずに移動することにしました。ここまでかなりの長い時間歩きずめだった石原さんは大変だったと思いますが、ゆいレールの駅には全てエレベーターが設置されています。これは、お子さんやお年寄りが使われることはもちろんですが、大きな荷物を抱えて移動しなければならない観光客にとっても実にありがたいことです。こうした配慮は、私が宿泊したホテルのある最寄り駅、旭橋駅への道でも見付けることができました。キャスター付きスーツケースを引っ張っていってもスムーズに進めるように歩行者用通路の段差を解消している部分があり、小さなことですがその心遣いに大変感心しました。

 美栄橋駅からは元々映画館が立ち並んでいた沖映大通りを通ります。確か以前は大型スーパーのダイエーだったところがいつの間にかジュンク堂書店が入ったビルになっていて、その品揃えは大したものです。沖縄関連本の集まったフロアでしばし物色し、お目当ての買い物を終えてようやく石原さんのホテルに帰った時にはすっかり夜になってしまっていました。ここでようやく長い一日が終わるかと思ったら全くそうではなくて(^^;)、本日はこれからまた出掛ける予定が入っていたのです。その日は金曜日ということで朝から仕事だった尚子さんと合流し、昨日とは違うライブを見に行く予定を立てていたのでした。

 昨日のコンサートで元「たま」の知久寿焼さんがただ一人参加されたのは、実はそのためにわざわざ来たのではなく、同じく元「たま」のメンバー、滝本晃司さんと沖縄でライブをする予定があるのを、大工哲弘さんが聞きつけて誘ったとのこと。昨日の演奏はある意味たまの事を全く知らない人たちの前で演奏したものであったので、ファンの人たちの前でのリラックスした演奏もいいかなということで「たま」とも竹中労さんの取材を通じて関わりのある石原さんをお誘いしたのでした。ライブの前に国際通りのお店に適当に入って軽い夕食となります。それにしても、生活の基盤を沖縄に移してしまう尚子さんの行動力たるや、とても私など及びもつきません。私の別のページで書いている事ですが、竹中労さんが亡くなる直前、体を病み自分ではとても物を書けないので、以前の講演録をテープ起こしする手伝いを石原さんが募ったということがありました。私やごく少数の人たちを除くと、手を挙げた人たちのほとんどが「たまの本」を読んでファンになってくれた女の子たちだということでしたが、尚子さんはその際にテープ起こしを手伝った人たちの中の一人だったとのこと。果たして同じように「たまの本」を読んで心動かされた多くの竹中労さんのファンの方々はどうなったのかわかりませんが、沖縄に移り住むだけでなく、その地にすっかり根を下ろして今でも竹中労さんに係わりながら日々を過ごしているというのは実に羨ましい話ですし、それだけ人の心を動かすだけの力を竹中労さんの文章というものが持っていたという何よりの証が、しっかりと今の沖縄に根付いているような気がして何だか嬉しくなりました。

 ライブは3名になった「たま」の姿を長期取材した「たまの映画」終了後に行なわれました。ライブの内容は、「星をたべる」(滝本)と「らんちう」(知久)をそれぞれ一人で歌い、「レインコート」「裸足の足音」 「326」を2人で。そのまま終了かと思われたところ強引にアンコールに入り「あるぴの」で幕。ライブだけで1時間とかなりみっちりやっていただきましたが、十分にその世界を堪能させていただきました。

 この時点で時刻は11時半を回っていましたが、ここで終わりにならないのが沖縄の夜のすさまじさです(^^;)。実は昨日の打ち上げで雪崩式に岡留氏のお店へ行き、そこでみんな帰ってしまったので、ぜひ石原さんにお会いしてお話をしたいと言われていたらしい大城美佐子さんに会えずにいたのでした。そこで、尚子さんに連絡を入れてもらい、那覇市内にある大城美佐子さんのお店「島思い」(http://www.shimaumui.net/ 沖縄県那覇市東町4-6 東壱番館B1F 098-866-0234 定休月曜 営業時間午後7時〜午前2時迄 ライブは午後8時から)へ向かいます。大城美佐子さんの熱烈なファンである富山の竹中晃さんもぜひ御一緒したいとお昼にお話を伺っていたので、ここでお誘いします。地下にあるお店ながら、ドコモの携帯電話がつながるステッカーが貼られたお店は、すでに観光客の方が多く入店されていました。

 店に入るなり大城さんが石原さんを見付けて駆け寄ってきました。それだけ久しぶりの再会だったのですね。飲み物はどうするかと聞かれたので、後から来る竹中さんのボトルを出してもらいとりあえず飲むことに。しばらくしてお昼に別れ、恐らくその後ホテルで休養を取ったと思われる竹中さんが現れました。

 かなりの頻度で沖縄に通っている竹中晃さんは、入ってきた時からテンションが上がっていて、大城美佐子さんと一緒に波照間島へ行った時の話など、矢継ぎ早に私や石原さんに話してくれました。ご自身のホームグラウンドである富山に大城美佐子さんを招聘してライブを開催したりなど、それだけ沖縄の島唄にのめりこんでしまったというのはもちろん竹中労さんの存在があったのでしょうが、御自身がコラムで書かれている通り、那覇でもライブを開催したという、その故郷である富山で今もおわら夏の盆で演奏される「越中おわら節」との関係が大きいのでしょう。

 日本における民謡というのは、録音機器などない昔から口伝いに伝承されていたわけですが、その土地の地理的要因によって残りやすいところと残りにくいところがあったように思います。かくいう私が住んでいる静岡などまれにみる残ににくいところで、「静岡の民謡とは何か?」と言われれば「茶切節」と言わざるを得ないというのが実に悲しいものがあります。ちなみに、この茶切節というのはいわゆる新民謡と呼ばれているもので、昭和時代初期に当時の静岡〜清水間を結ぶ私鉄のコマーシャルソングとして作られたものであり、地元から生み出されたようなものでは全くありません。昔の静岡の地図を見ると、新潟周辺ではかなり長く残っていて今でも伝承者のいる越後瞽女(ごぜ)のように活動していたと思われる 瞽女屋敷なるものが徳川家康の側室、西郷局ゆかりの寺、宝台院で江戸時代の300年間存続していたという記録があることはあります。しかし、それがどんなものであったかというのは、東海道を行き来する人たちの往来が激しくなるとともに、いつのまにか廃れてしまったと思われるため全くその気配すら感じられないのであります。

 これは、現代の私たちの世界にも共通の問題で、都会で流行り廃りが早ければ早いほどそれまで流行っていたものが全く見向きもされなくなるだけでなく、その痕跡さえあっという間に消えうせてしまいます。今でこそインターネットで日々記録をしている人たちの蓄積によって多少はマシになってきているとは言うものの、自分の回りであまりにも当たり前にあったはずのものが今はどこを探してもないという経験をされた方は多いのではないかと思います。実際の物自体についてはそれを伝えることはできますが、今でも個人の努力で細々と残っている技術を要するようなものは、そのやり方まで記録しようとする奇特な人がいない限りは、当時がどうだったのか検証することすら不可能になってしまいます。

 昭和30年代から40年代にかけて、一般家庭に急速にテレビの普及がされた時期が、今まで当たり前にあった民衆の娯楽をテレビに向かわせ、その結果としてその土地土地の風俗が急速に廃れていったのですが、まさにその時に当時の現状を記録しようと精力的に活動されていた方の中の一人が竹中労さんであったわけです。そうした仕事というのは今でもちゃんと評価されているのかという問題はありますが、実際にレコード化されることで地元の卑しいもの(と思われていたもの)が音楽作品として再評価されたことは事実でしょう。富山といえばもうひとつ、こうした時期に開催された「全国チンドンコンクール」の存在があります。昭和30年に第一回が開催されたコンクールは大震災の影響で今年(2011年)は中止になってしまいましたが、こうした催しがなければチンドン屋さんは全国的にまとまるようなこともなく、今の状況よりも悲劇的に廃れてしまったということも考えられます。このような歴史を持つ土地で暮らしてきた竹中晃さんが、未だに独自の文化が息づいている沖縄にはまりまくってしまったというのは実にストレートな感情からのものであったと言えるのではないでしょうか。竹中さんにはこれからも沖縄からエネルギーを充電し、ぜひ地元の富山でも御活躍いただきたいですし、竹中さんの後に続く人材を育てていって欲しいものであります。

 島思いでは思い出話に花が咲き、竹中さんも石原さんも店の閉店時間である午前2時を回ったのにも関わらず全く撃沈する様子が見受けられません。それとは反対に、その日も仕事をこなし、翌日も普通通りの仕事が待っているという尚子さんの調子が危うくなってきました。かくいう私も早朝から起きて活動していたためそろそろ限界という感じになったので、さらに一時間経ったところで、お開きにしていただきました(^^;)。大城さんのお店と私のホテルはすぐ近くだったので、石原さんの方は竹中さんにお任せし、ホテルにたどり着いたのは午前3時半になってしまっていました。もちろん、ホテルの部屋に入ったらすぐにベッドに倒れこむようにして寝たことは言うまでもありません。


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