存在感(2001.11.7)
沖縄民謡の象徴的存在だった嘉手苅林昌さんの追悼コンサートが沖縄・沖縄市民会館大ホールでさる11月4日に行われました。写真で見てもらってもわかるとおり、厳かな雰囲気で生前共演した歌い手さんやお弟子さんが淡々と演奏を続けていきます。しかし、嘉手苅さんの存在感というのは巨大だなあと感じた一瞬がありました。
というのは、会場に在りし日の嘉手苅さんの映像が流れた時だったのです。
沖縄出身の映画監督・高嶺剛さんの撮ったビデオの中の嘉手苅さんは、この日の一番の拍手喝采を受けたような感じを私は持ちました。それは、歌のすごさというよりもその人自身のもつ雰囲気というか、そういうものが画面からかなり出てきたことと関係があるのではと思うわけですが。
監督の高嶺さんは、ほとんど嘉手苅さんに指示を出さないで、好きに演奏してもらったとか。そして、カメラを複数置いて、いろんな表情を狙うことで嘉手苅さんの魅力を映像の中に納めることが可能になったという事であるようです。残念ながらその作品はまだDVDになっていないのが残念ですが、「嘉手苅林昌 唄と語り」というビデオを見つけたらぜひ一度見てもらいたいですね。
早く伝えたいために(2001.9.19)
プロのミュージシャンは、義務的に楽曲を作りツアーに出てと言うことを繰り返していることで利益が出ると言うことではあるのですが、私が思ったことを書いてホームページに発表するのと同じように作ったものをすぐに聴いて欲しいという欲求もどこかにあるはずではないか。そんなことを考えていた時に実際に行動を起こした人がいます。
ミュージシャンといっても、そういうことをするためにはインターネット関連の知識を持っているか、詳しい人が周辺にいるか、そういうことが必要になりますね。今回紹介する佐野元春さんは、本人のサイトで期間限定ながら新曲を自由にダウンロードできるという形で自分のメッセージを伝えています。というのも、今回の米国での同時多発テロについて曲を書いたと言うことで、その感覚が残っているうちにたくさんの人に聴いて欲しいという趣旨らしいです。2001年9月25日間での限定ですので、興味のある方は以下のページからダウンロードしてみてください。
http://www.moto.co.jp/light/index.html
楽曲自体の評価については置いておくとして(^^;)、無料で音楽ファイルを置くということは、限定期間後も流通することは覚悟しておかなければ行けません。今回のファイルは、まだ完成途中という感じですので、多少の流通は覚悟の上で、それ以上にこの時期に聴いて欲しいということなんでしょうね。同じように、インターネットを使えば音楽という形でも本人にやる気さえあれば出せるということです。
音楽を聴く方の立場からすると、間に合わせで限りなくパクリに近い楽曲を聴かされるよりも、本人が作りたいという強い意志のもと作った曲を聴きたいものです。そういう曲の全てを無料で聴かせろというわけでは当然ありません。ミュージシャンとリスナーを繋ぐものとしてホームページがあるならば、多少はこういう試みがあってもいいのになと今回改めて思った次第。
もうがまんできない(2001.8.2)
日本の歌謡曲の歴史はパクリの歴史であった(^^;)というのは、明治時代に街の演歌師によって歌われた旋律は、ことごとくアメリカの作品や賛美歌のパクリであったという状況からも明らかです。音楽だけでなく、尾崎紅葉の金色夜叉もアメリカのとある小説を下敷きにして書かれたという研究があるそうです。
ただ、その当時は本歌があることすらも知らない人たちに聴かせていて、今のように市場が日本全国だけでなく世界までも広がるということが考えられない時代でもありました。演歌師は集まってくれた人たちにのみその歌詞を書いた歌本を売ることで生計を立てていましたし、レコードが出るといっても蓄音機自体がそれほど普及しているわけではありませんから著作権などの考え方もかなり甘いところからスタートしたのですね。
しかし、現代はというとまるで違います。世界のどの国の音楽でも聴くことができますし、著作権の考え方も進んでいまして、インターネットを通じた音楽配信サービスというのも好き勝手にやることはできないのです。
それにしても、アレンジ(編曲)というのはそのまんま使ってもいいのかと思うほど今のポップスは他人の曲を使い放題ですね。売れるのなら何でもいい、勝てば官軍というのを地でいっているのが元シャ乱Qのつんくです。美空ひばりのお祭りマンボに非常に似た曲とか、VACATIONに似た旋律を持つ曲をこの夏発売したのは記憶に新しいところです。そして今日、暗澹たる気分になったのがNHKで放送されている『お江戸でござる』の挿入歌としてつんくが提供した『えなりかずきの子守歌』(^^;)。こんな歌を歌わされて、かわいそうだけどえなりくんはもう未来がないでしょうね。ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』で共演した俳優・角野卓造さんは、『一度テレビに出ることをやめてテレビ以外の人生を味わった方がいい』と言っていましたが、今となってはもう遅いでしょう。昔、フジテレビの夕焼けニャンニャンにおにゃん子クラブと一緒に出ていて、さんざんいじられた末に消えていった段田男を思い出します。周りの人からいじられて、10年後にはあの人は今で出てくるというパターンにはまるような感じが。
個人的に、パクリであったりテレビの企画から生まれたものであったり、何ともお手軽な歌謡曲がそれなりにヒットする現状というのは音楽業界にとっていいものなのだろうかと考えていたのですが、やはり『えなりかずきの子守歌』にはどうしても我慢できませんでした(^^;)。そういえばこの番組の挿入歌は以前秋元康が書いていたんですよね。古き良きコメディを追求するなら、もっと地味でもいいから舞台の音楽を書いている人に担当させればいいのに。
音楽文化の行く末(2001.1.9)
この国の音楽というのはどういう位置を占めているのでしょう。次第に外国からの影響を受け、ネットを通じた音楽配信が一般化しようとしている現在、未来の音楽産業ということで大風呂敷を広げてみます。
アメリカのナップ・スターは、簡単に音楽の複製を作り、ミュージシャンやレコード会社の利益を奪いました。社会問題になっている状況も、ここ日本ではまだまだ楽観的というか、危機感は感じられません。しかし、インターネットが広まるにつれ、確実に著作権を無視した音源のコピー行為が蔓延していくでしょう。インターネットの掲示板を見ていると、興味ある音楽の話になったときその楽曲のMP3ファイルはない? と堂々と会話がなされています。そういう人にとっては、音楽というものはお金を出して買うものではなく、必要に応じて手に入れるものであるからです。
日本のレコード会社の中には、一曲300円程度でインターネットや携帯電話などを通じて音楽を配信するサービスが行われているものの、同じお金を出すならCDを借りてしまう人が大多数だと思います。ただ、MDにダビングしてヘッドホンステレオや車の中で聞くだけなら、そこまで音質を追求しないのならネット配信でもいい。お金を出して買わなくても無料でダウンロードできる闇サイトがあれば、そこからダウンロードしてしまうと。
結局のところ、貸しレコード屋の存在を許してしまった辺りから、日本の音楽は変化してきたといえるかもしれません。今のヒットチャートでも、まず大量にレンタル業者の買い上げがあって、オリコンなどのチャートが決まっていくという現実があります。昨年ヒットした演歌『孫』のような例はまれで、海のものとも山のものともわからない新人よりも、確実にヒットが期待される大家の作品がもてはやされ、売れるものは百万単位で売れるが、そこからが続かない。百万のうち、そのかなりの部分がレンタルショップで消費されるというのなら、別に個人はミュージシャンのオリジナルの作品であるCDを自分で持っていなくてもいいと思っている人が多いのではないか。実はこれが問題だったのです。
私個人の場合ですが、私の好むミュージシャンの作品はことごとくレンタルショップには置かれていませんでしたから(^^;)、結構CDは持っています。本当に欲しいものに付いては中古屋さんを回っても手に入れなくてはという気持ちも持っています。そうでない世代にいたっては、オリジナルはネットのどこかにあれば、聞きたいときはそれをコピーして使えばいいという風に音楽の所有感についても違ってきているのではと思います。個人的にはもう少ししたら、音楽業界自体が斜陽産業になってしまうような感じがするのですね。それを避けるためには、リスナーがオリジナルの音を求め、それを所有したいと思わせるような努力が必要なのですが、果たして今のヒットチャートを賑わしている人たちの中にそういうことが出来る人たちがどれくらいいることでしょうか。それでも、コマーシャルなどを取ってくるとか、テレビやコンサートで稼ぐとか、そういうことで生活が破綻するようなことはないでしょうが、結局のところ音楽業界の斜陽ということになると影響はマイナーな音楽に来ます。今までは発売できていたジャンルの音楽が、全然発売できないということも考えられます。
そうなった場合、日本の音楽というものはどうなってしまうのでしょう。それも、ある特定のジャンルの音楽だけが突出して売上があるという構造的不安のある状況にのって音楽産業が発展してきたからのように思うのですが。やはり新世紀は、流行に惑わされない音楽を評価するような形になってほしいものですが。
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