年譜

 この年譜の製作につきましては、1991年9月20日、川口リリアホールで行われました「竹中労・別れの音楽会」のパンフレットに掲載された年譜を一部の訂正のもと掲載しています。製作者である大村茂さんのご厚意により、このページでの掲載が実現しました。内容については万全を期しているつもりですが、戦災による戸籍消失という事情もあり、事情にお詳しい方から見ると、思わぬところで事実と違う記載があるかもしれません。その時には、どうかこちらのほうまで連絡いただければ幸いです。

西暦
元号
年齢
年譜
1930
昭和5
0歳

東京・牛込区肴町で出生。父・英太郎、母・八重子の長男。戦災後復活した戸籍では「30年5月30日出生」だが、旧制中学校在籍簿には「28年3月30日」とある。名ははじめ「乱」後「労」。「父親がアナキズムからボルシェヴィズムに転向したゆえ」という。家庭の事情で転居転校4度、小学校5年次に品川区立会川へ移り鮫浜小学校卒業。高輪中学校に入学。

1941
昭和16
11歳

平島つね子と再婚した英太郎、生母・伊津野八重子の手元から労を引き取る。

1942
昭和17
12歳

立会川の鉄工場が戦時企業整備により閉鎖され英太郎とともに甲府へ疎開。山梨県立甲府中学校に転入学。

1944
昭和19
14歳

学徒勤労動員で神奈川県大船の海軍燃料廠に。

1945
昭和20
15歳

8月・大腸カタルという診断で担架にくくりつけられ大船・海軍病院から甲府へ帰る。真相は全身打撲で死線を彷徨うほどの教師の制裁。10月・甲府中学校全学ストライキを指揮、戦犯教師を追放するがみずからも退学処分になる。

1946
昭和21
16歳

東京外事専門学校(現・東京外語大)露語学科に入学。

1947
昭和22
17歳

在外同胞救出学生同盟に参加、2・1ゼネスト中止直後日本共産党に入党。4月・上野駅地下道で活動。進駐軍の夜勤労務、横浜港のプータロー、米軍婦人部隊通訳、暴力団親分娘の家庭教師などアルバイトにもはげむ。7月・引き揚学生同盟の左翼的再編のために結成した東京学生同盟の事務局長となり、東京都引揚者連合会文化部長を兼任。細胞キャップS"三文オペラ"と綽名をつける。「犯罪者とも連帯せよとの奇矯な(?)理論と襤衣をひっかけた皮肉」。右翼学生の反撃や援助物資横流しのデマを粉砕するが誇りが許さず「さらば学生運動」。「党を離れ(党籍はそのまま)一個のルンペン・プロレタリアート」となる。

1948
昭和23
18歳

東京外語大除籍。山谷・横浜のドヤ街に住み肉体労働に従事。山谷で知りあった泥棒二人と血盟、「持てる奴等からの掠取、泥棒は正義である」と"革命的窃盗団"を結成。標的はサッカリン・石鹸などの隠匿物資。なお、敗戦直後から同人雑誌に詩を発表していたが散逸している。

1949
昭和24
19歳

蔵物故買容疑で逮捕されるが完全黙秘して釈放される。その間に血盟したはずの二人は現金や戦利品とともに蒙塵。甲府に帰り図書館で読書三昧。共産党に復帰。印刷工、地方紙記者、書店員、学習塾経営のかたわら映画サークルや自立劇団を主宰。

1950
昭和25
20歳

甲府自由労働組合情宣・文化部長として中小企業・日雇労働者の運動に専従。新日本文学会員となり同人誌に未完の小説を発表しているが掲載紙は現存しない。

1951
昭和26
21歳

自由労組を指揮して生産管理、県議会乱入など労働運動に奔走。共同工芸社争議では家宅侵入・器物損壊の共同謀議容疑で父・英太郎とともに被告となる。

1952
昭和27
22歳

上京、再び山谷へ。朝鮮民戦の同士とともに火炎瓶闘争。5・30淀橋警察署焼き打ち事件に連累検挙されるが釈放後山梨県下に潜行、12月再び逮捕され甲府刑務所に収監される。

1953
昭和28
23歳

釈放された日盛りの街で美空ひばりの唄に出会う。甲府に帰り孔版印刷「五月工房」設立。イタリア・ネオリアリズム映画の文体を駆使したルポルタージュを同人誌に発表。党員資格剥奪のまま、中小零細企業・日雇労働者の労働組合運動と平和運動、文化運動に専念。

1958
昭和33
28歳

上京、東京毎夕新聞に入社。文化部に籍をおき、浅草・新宿・池袋などのストリップ劇場をまわり猥雑な雰囲気のなかに沈潜韜晦の日々をおくる。

1959
昭和34
29歳

無署名風俗ルポを「週間スリラー」に書く。7月・東京毎夕新聞退社独立、ルポ・ライターを名乗る。11月・「女性自身」デスク井上清にスカウトされスタッフ・ライターとなる。

1960
昭和35
30歳

安保闘争では「若い日本の会」に参加するが作家文化人の夜郎自大さを批判して脱退。芸能人・皇族、はては本物の死者まで150余編の手記を創作、代作。

1961
昭和36
31歳

安保闘争の私的総括のはて「党」を内部から変革すべきだと復党。「なんという愚かな妄想だったことか」。

1962
昭和37
32歳

6月・中野区沼袋・帰山荘に転居。

1963
昭和38
33歳

"予告連載"シリーズ(女性自身)で大川橋蔵婚約、美空ひばり離婚などをスクープ。森繁久弥との間に"二重の筆禍事件"が起き、「やむをえず署名で原稿を書くことになった」。

1964
昭和39
34歳

独立。フリーの"ルポライター"を名乗る。3月・船橋市高根台団地に転居。「二人自身」に「団地七つの大罪・(12月単行本上梓、東宝映画化)「処女喪失」(65年単行本上梓、日活映画化)を連載。5月・団地自治会長になる。

1965
昭和40
35歳

「ルポルタージュ女優論」(女性自身)をはじめ雑誌連載6本。ルポライター竹中労の名を「世間の所有」に帰せしめた『美空ひばり』(弘文堂)を上梓。11月・印税および映画原作料の全てを投入してアジア・中国旅行に出発。

1966
昭和41
36歳

4月・仕事場を中野区宮前町にかまえる。6月・ザ・ビートルズ来日から離日まで102時間のマス・ヒステリアを記録した『ビートルズ・レポート』(「話の特集」別冊)を音楽ジャーナリスト7人と共同責任編集。深沢七郎・三島由紀夫らに絶賛されるが営業的には不発で「話の特集」は休刊となる。『団地七つの大罪』『処女喪失』『美空ひばり』を上梓した弘文堂から『呼び屋』を書き下ろすが同社は倒産、印税不払いで経済的に逼迫。8月・南部僑一郎と東映京都撮影所に赴き争議中の東映俳優労働組合を支援、東俳労委員長・宮崎博、中村錦之助、伊藤雄之助とはかって「東映の俳優諸君を守る運動ニュース」を発行。

1967
昭和42
37歳

「人生相談」(日本TV)にレギュラー出演したのをはじめとしてテレビ・ラジオにも進出。大阪労音制作「大日本演歌党」(バーブ佐竹主演)を川内康範と共同演出。軍歌をタブーとしていた労音で物議をかもす。東京都知事候補美濃部亮吉を支援、映画復興会議開催を呼びかけ、京都府政百年記念と時代劇復活を展望した「祇園祭」映画化のため奔走。が、原作者の干渉、府議会革新系の対立、府官僚の妨害などで企画者を辞任。日本共産党を「復党見込みなし」の除名。10月・東俳労争議、全員復職をかちとって勝利解決。12月・仕事場を中野区弥生町に移す。「日本は狭く、反体制を称する人々も精神卑しくして、わが革命の志をのべる余地は、当面ないことを痛感……夢を海の外に移し、衰弱した情熱の回復をはかるべく」キューバへ。

1968
昭和43
38歳

1月・「メモ・キューバ」(話の特集)連載開始。テレビ出演激増。東映映画『セックス猟奇地帯』構成、シナリオ執筆。3 月・「狂気見本市」プロデュース・「秋山裕徳太子はチンポコを出して乱舞し、ゼロ次元は鶏の首をちょん切り、麿赤児は水びたしの布団を客席に投げ、ビタミンアートは舞台の上に本物のクソをした」。キューバとの合同ドキュメンタリー映画を構想するが、結局「たんに映画を作りさえすればよい人々だけが残って」(大島渚)黒木和雄「キューバの恋人」となる。6月・山谷詩人梶大介に「解放運動への一味同心を要請」され、山谷自立合同労組を拠点として山谷解放闘争を闘う。7月・渡辺プロの搾取のシステムを暴いた『タレント帝国』(現代書房)上梓。9月・山谷玉姫公園「岡林信康・山谷ブルース」発表会企画構成。10月・「第一回ヤマのうたまつり」(出演/岡林信康・高石ともや・中村とうよう)企画構成。『明治はるあき』(五所平之助監督)に特別出演。11月5日・竹中労をふくむ30名"東京都庁乱入事件"で逮捕され、検察庁にフィルムを押収されるが、作家長部日出雄、弁護士・近藤俊昭、山根二郎らの協力を得て奪還。「山谷窮民の闘争を機縁に故斉藤龍鳳との交友を復活、岩田弘(安保共闘)太田竜(プロレタリア軍団)ら新左翼のイデオローグを知る」。12月・プロレタリア解放同盟を結成し機関誌『解放戦線』創刊、地下印刷所を経営。

1969
昭和44
39歳

2月・部落解放同盟大阪府連が「書かれざる美空ひばり」(週刊明星連載)を"糾弾"。「ひばりの歌声は差別の土壌から生まれて下層社会に共鳴の音波を広げたこと、あたかもそれは、世阿弥、出雲のお国が賎民階級から身を起こした河原者の系譜をほうふつとさせる。……ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」。3月・全国の学園闘争に関わり。自主管理闘争中の青山デザイン専門学校で平岡正明、上野昂志らを知る。6月・山谷玉姫公園6・15集会で私服刑事と乱闘。8月・「山谷夏祭」(企画構成)をめぐりプロレタリア解放同盟分裂。春から秋にかけて釜ガ崎へ。寺島珠雄ら関西のアナキスト、詩人と親交を結ぶ。9月『山谷−都市反乱の原点』(全国自治研修協会)上梓。「日本禁歌集」企画。「波まくら博多淡海」メンタマひんむいて、「ふてぇがって魂消ったねえ、こげな歌ば何の酔狂でレコードにすっとじゃろうか!?」。「海のチンボーラ」風狂のうた人・嘉手苅林昌、八重山トバラーマの名手・山里勇吉の怨唱「何時の世にないば/女陰{ホー}ぬ物言うがやヨ」。この作業以降「音楽によるルポルタージュ」の試みに熱中することになる。10月・はじめて沖縄へ。布川徹郎らNDUのドキュメンタリ映画『モトシンカカランヌー』に製作協力。11月・「メモ沖縄」(話の特集)連載開始。

1970
昭和45
40歳

1月・「エライ人を斬る」(週間読売)連載開始。「全日本歌謡選手権」(よみうりTV)レギュラー審査員となる。4月・光文社労組ストライキ突入。5月・仕事場を世田谷区代沢「蝶恋花舎」に移す。発見の会「紅のアリス凶状旅」プロデュース。「アングラ・ブームは去り、マスコミは異端を認知する。これはハミダシ残党の都落ち、突破口を求めてのエキストラ・イニングス」。6月・「全日本歌謡選手権」沖縄最終予選で局スタッフとトラブル。7月・「大杉栄研究会」「水滸伝セミナー」「アナキズム・セミナー」主宰。8月・在韓被爆者取材に広島・韓国へ。9月・「エライ人を斬る」総理大臣夫人佐藤寛子の干渉で中断。11月・読売新聞社及び佐藤寛子を告訴。上野本牧亭で「巷談・読売筆禍事件」を語る。「新評」「現代の眼」で三島由紀夫を論ず。12月・ドキュメンタリー映画「倭奴へ」製作のために韓国へ。10カ月レギュラー審査員だった全日本歌謡選手権優勝歌手天童よしみのため「風が吹く」を作詞。「俺が生まれたあの村は/海山千里の風が吹く/さらばさらばと風が吹く」。

1971
昭和46
41歳

1月・「漂泊の志やみがたく」みずから主宰の「励ましてもらう会」を旧飛田遊廓、旧新宿遊廓内で。『エライ人を斬る』(三一書房)上梓。「私にとって文章をマスコミに発表する作業とは、可能な限りの領域で活字の暴力を行使することにほかならない」。7月『倭奴へ−在韓被爆者無告の26年』(NDUと協働)の準備過程で韓国人被爆者密航幇助等々の理由でビザ発給を拒否される。9月・連続シンポジウム「戦争と革命」企画構成。10月・「ポルノ・ティーチイン」(TBSTV・制作テレビマン・ユニオン)出演。発言をすべてカットされる。「フリーキッシュ・コンサート」(光文社労組主催)出演。伊藤公一(巷談舎)と協力を約す。

1972
昭和47
42歳

1月・沖縄、先島へ。以後4月〜8月、の沖縄行で「モトシンカカランヌー」「倭奴へ」「アジアは一つ」若松プロ「赤軍・PFLP/世界戦争宣言」とパネルディスカッションを連鎖し琉球独立党を支援。野底土南、宮城賢秀、大城正男らと同志の盟を結び、「繊細なるワタブー照屋林助」と出会う。3月・夢野京太郎名で「赤軍リンチ事件」(週間小説)執筆。5月・「琉球幻視行・蝶なて飛ばば」(えろちか)連載開始。6月・太田竜・平岡正明と富山で「三馬鹿講演会」。太田竜「アイヌ解放こそ世界革命の第一義」と平岡・竹中と絶縁。7月・「夏の妹」沖縄ロケをめぐり大島渚と論争。『琉球共和国/汝、花を武器とせよ』(三一書房)上梓。「艶本紳士録」(噂)連載開始(79.7『「国貞」裁判・始末』として三一書房より上梓)。8月・かわぐちかいじと協働で、「博徒ブーゲンビリア」(漫画アクション)連載開始。「夏の夜の物怪」(平岡正明企画構成)で「南島水滸伝/琉球人民共和国誕生」口演。10月・巷談舎主催「大演説会」(企画制作伊藤公一)に企画協力出演。

1973
昭和48
43歳

1月・汎アジア一〇八日幻視行。3月・沖縄コザ闘牛場の「ジェームス・ブラウン沖縄でうたう!」(制作伊藤公一・岩永文夫)企画協力。夢野京太郎『世界赤軍』(潮出版社)上梓。5月・「琉球情歌行/嘉手苅林昌独演会」。「余のウチナー狂い、おそらくは生涯とどまることなし。もし死なば余の骨は名護湾の薔薇の落日に投げすてよ」。巷談舎主催「大演説会・73」で「汎アジア幻視行報告」口演。「日本映画縦断」(キネマ旬報)連載開始。「この連載を私のメルクマールとしたいのだ。落日に背を向けて、昏い東の地平を眺めやるような感慨をいだく。そこに、再び日は昇るか。映画はわれらの白鳥の歌である」。『水滸伝/窮民革命のための序説』(平岡正明と共著、三一書房)上梓。8月・「琉球情歌行/嘉手苅林昌独演会」。9月『無頼と荊冠』(三笠書房)上梓。「批評とはとりもなおさず行動である。実戦をともなわぬすべての論理に、私は価値を認めない。風狂のそしりをうけながら"書く"ことは即実行である、という信念を私は一貫してきた」。

1974
昭和49
44歳

1月・巷談舎「巷談の会」(上野本牧亭)出演、以後3年間レギュラー出演。3月・新宗連の若者を伴い「アジア懺悔行」に出立。4月・懺悔行の日程を終了した日「私はマニラ市内の床屋で頭を丸め……勝手に得度して花和尚雲居と名乗ることにした」。猫30匹とともに箱根宮城野に転居。屈原の賦からとって「離騒庵」と命名。羽仁五郎と対談「アジア燃ゆ」(現代の眼、9月現代評論社より上梓)。8月・「琉球フェスティバル74」(出演/嘉手苅林昌・山里勇吉他27名)開催。日比谷野音に観衆七千、「東京に沖縄解放区が実現した」(琉球新報)。9月・『逆桃源行』(山と渓谷社)、『日本映画縦断(1)傾向映画の時代』(東京白川書院)上梓。10月・作/夢野京太郎、画/かわぐちかいじ『黒旗水滸伝』(現代の眼)連載開始。12月・マルレーネ・ディートリッヒ公演プロデュース。「ニッポン低国文化状況に、小さなクサビを打ち込むことが、私はできたと思う」。

1975
昭和50
45歳

1月・「沖縄−うた・祭り・放浪芸」取材録音に沖縄へ。2月・「日本映画縦断」にキネマ旬報読者賞。3月・「琉球フェスティバル75春/嘉手苅林昌独演会」企画構成。4月・記録映画「アジア懺悔行」完成。東京、大阪、名古屋で自主上映。7月・盲目の放浪芸人里国高の出演交渉に赴いた奄美で警官と乱闘。「悪魔の報道」を載せた毎日新聞から謝罪文を取る。8月・春の「多額の赤字」にもかかわらず「琉球フェスティバル75夏」開催。「中止できなかった。なぜならそれは、"興行"ではなく、"運動"だったから」。『琉歌幻視行』(田畑書店)上梓。9月・『日本映画縦断(2)異端の映像』(東京白川書院)上梓。10月・滝沢一・白井佳夫・竹中労"ペン鬼"三人の『浪人街』リメーク運動広がる。12月・巷談舎主催「大演説会/論争への招待」企画協力出演。7年間にわたる「メモ沖縄」(話の特集)連載終る。沖縄島うたの集大成を企図し、企画構成解説からテープ編集まで独力で「嘉手苅林昌の世界」他LP34枚+SP一枚に四百数十曲を収録。

1976
昭和51
46歳

3月・山上伊太郎終焉の地フィリピンへ。「アジア懺悔行」亜州連続上映のためシンガポール、マレーシア、タイへ。6月・羅針盤主催「大殺陣大会」にアラカン、片岡知恵蔵、河津清三郎、ピラニア軍団とともに出演。「言論にとって自由とは」(マスコミ評論)連載開始。7月・「引揚学生同盟のころ」(アサヒグラフ)執筆。9月・夢野京太郎「浪人街/天明餓鬼草紙」執筆(77・5東京白川書院より上梓)。10月・シネ・ヴァラエティ「日本剣豪列伝/大殺陣」(製作伊藤公一/企画・脚本・構成・演出夢野京太郎)完成。11月・竹中労+嵐寛寿郎『鞍馬天狗のおじさんは/聞書アラカン一代』『日本映画縦断(3)山上伊太郎の世界』(ともに東京白川書房)上梓。キネマ旬報社が白井編集長解任、「日本映画縦断」「浪人街ツアー」中止を申し入れ。12月・「浪人街ツアー」を遂行、若者14名とアジアへ。

1977
昭和52
47歳

2月・『新右翼青年へのアピール』(愛国戦線)執筆。「無党派のエネルギーを結集」「非政治的局面に人々の"自由な連合"を」と「革新自由連合」の実現に奔走。3月・五木寛之・マキノ雅弘に「戒厳令の夜」映画化を委託され企画書作成。4月・「みずからの"自由な言論"を回復する闘いを決意した。群れることによって何事かを行おうとするのは、怯者の論理である」(さらば若者たち)。6月・8年にわたる「週間読売筆禍裁判」、読売側が謝罪文(公表しない条件)と相当量の慰謝料を提供して和解成立。『自由への証言』(エフプロ出版)上梓。「伊太郎地蔵」彫刻開眼、伊太郎戦没の地フィリピン・ラムフト河畔で灌仏の儀。シネマレクィエム「山上伊太郎ここに眠る」制作。「キネマ旬報裁判」始まる。7月・参議院選で俵萌子応援演説。8月・伊太郎地蔵を洛北妙心寺に安置「山上伊太郎忌」始まる。「木馬亭巷談倶楽部」発足。「黒旗水滸伝の内・大杉栄と甘粕正彦」を口演して78・7月まで毎月出演。10月・「芸能界深層レポート」(週間文春)連載開始するも、12月・「編集の都合」で原稿を寸断され契約破棄(78・1『タレント残酷物語』としてエール出版より上梓)。

1978
昭和53
48歳

4月・ジャバド森社長と「戒厳令の夜」映画化について懇談。7月・「あさくさ博覧会/田谷力三コンサート」(木馬亭)企画構成。「にゃんにゃん共和国」(猫の手帳)連載開始。8月・若者とともに沖縄・奄美へセミナーツアー「琉球幻視行78」出発。

1979
昭和54
49歳

1月・「最後の芸能界レポート」『スキャンダル紅白歌合戦』(みき書房)上梓、箱根の山を下り、「戒厳令の夜」映画化のため(株)白夜プロダクションを設立、ゼネラル・プロデューサーに就任。シノプスおよびイメエジ・シナリオ執筆。スーパー16ミリ撮影システム導入を計画。7月・(株)マリンフーズと調印。竹中労・山を下りる会。「あかばな心中」(企画・脚本・監督/夢野京太郎)制作発表。沖縄・先島の実景ロケに向う。8月・夢工房を目黒区下目黒に移転。「運動とは実務であり、段取りである。そして、佇間とは隊伍であり、隊伍とは、すなわち規律であります。山を下りて半年余り"戦闘体制"をようやく整えることができました」。9月・コロンビアへ。12月・(株)マリンフーズ倒産。マスコミの対応、資金調達に追われる。

1980
昭和55
50歳

1月・友人山根二郎を弁護士業務停止処分とした日弁連会長江尻平八郎への「公開質問状」を公開(現代の眼)。2月・「あかばな心中」脚本執筆。近藤俊昭・大島渚・野坂昭如とともに山根弁護士処分反対の運動を発意。4月・「公開質問状」に賛同署名した五百四十一名をもって"千人委員会"設立。5月・日弁連シンポジウムに対抗して「逆シンポジウム」開催。6月・「戒厳令の夜」完成試写、「わが国最初のスーパー16、映画として鑑賞に耐えうる画像を劇場のスクリーンに結ぶことができたことだけを、せめても人に誇りたい」。香港での"桃園の誓い"を果たし、「打鬼花和尚魯智深」の刺青を全身に彫る。彫師は凡天太郎。7月「戒厳令の夜」封切り、一月足らずで打切り。10月・香港での映画製作(企画・脚本/夢野京太郎、監督/内藤誠「上海飆{シャンハイヒョウ})をスポンサーの都合で断念。嵐寛寿郎死去。11月・『法を裁く』(耕策社)上梓。

1981
昭和56
51歳

3月・情報誌「香港コンフィデンシャル」創刊のため香港で調整に当たる。4月・香港・マカオ・中国を取材。5月・植松安太郎没す。7月・『ルポライター事始』(日本ジャーナリスト専門学院)上梓。太田竜・加々美光行らと「現代史研究会」を結成。8月・『右翼との対話』(現代評論社)上梓。9月・仕事場を横浜・小雀町に移す。10月「大圏仔と刺青」(極東三浦連合機関誌「限りなき前進」)、「越境者たち/17人の紅衛兵」(月刊プレイボーイ)執筆。「キネマ旬報裁判」(マスコミ評論)連載開始。「文革は擬劇の民乱であった/緑林の革命と"白蓮教"・上」(現代史研究会討議資料)執筆。12月・鶴田浩二、羽仁五郎他の呼びかけで「竹中労を鼓舞する会」。終って「肌絵・花和尚を観る会」

1982
昭和57
52歳

6月・『ビートルズ・レポート』復刊(白夜書房)「ビートルズもまた乳液のような地平の涯てに、柔和な調べを奏でる伝説の楽神でしかないとしたら、彼らの退激を語るこのレポートは、ついに理解の外でしかあるまい」。8月・夢一族・琉歌行セミナー。金城睦松没。「いま、島うたはその自由な呂律を失い、悪しきヤマトナイズの風潮の裡に滅び去ろうとしています。願わくば貴方の霊が天井からこの美しき島の、美しき唄をはげまして、永遠の生命を守護されんことを」。映画『俗物図鑑』に出演。9月・『芸能の論理』(幸洋出版)上梓。12月・東北、北海道へ取材行。

1983
昭和58
53歳

2月・『仮面を剥ぐ/文闘への招待』(幸洋出版)上梓。4月・「聞書・庶民烈伝/牧口常三郎の世界」(潮)連載開始。5月・太田竜と対談「大杉栄を生きかえらせる」(同時代批評)6月・羽仁五郎没。「吉本隆明異論・拝啓オジウエ/何を威張っておるのかね?」(詩と思想)執筆。『左右を斬る/続文闘への招待』(幸洋出版)上梓。8月「三粋人・テレビ談語」(新雑誌X)連載開始。9月・「春色歌ごよみ」(ミュージックマガジン)連載開始。10月・野村秋介、丸山実と対談「いま科学から空想への時代だ」(レコンキスタ)。「アラブ映画祭」審査委員を要請され、シリア、レバノンへ。11月『聞書・庶民烈伝(1)/牧口常三郎とその時代/雪炎えて・冬の巻』(潮出版社)上梓。

1984
昭和59
54歳

2月・「パレスチナ旅日記」(新雑誌X)連載開始。3月・流山寺祥、高取英、鈴木義昭と座談会「プロレス84」(ヘイ・パディ)。4月・「パレスチナ革命への予断と偏見/夢に狂うと人は言え」(同時代批評)執筆。平沢貞通を救う会主催「平沢貞通氏釈放要求集会」で記念公演。5月・中東取材、リビアとの回路をつなぐ。11月・「江青奪還作戦/幻の紅衛兵」(小説CLUB)執筆。「わが酒の自伝」(中州通信)連載開始。

1985
昭和60
55歳

1月・朝倉喬司と対談「犯罪水滸伝85」(ヘイ・パディ)。「風の会/講座にっぽん百年」(運営員竹中労・加々美光行・玉川信明・玉城素・西垣内堅祐)発足。4月・『聞書・庶民烈伝(2)/牧口常三郎とその時代/春と修羅・春の巻』(潮出版社)上梓。5月・『大杉栄』(現代書館)『人間を読む/かい人21面相』(幸洋出版)上梓。6月・中東取材行。視界に変調を来す。医師の診断は「左眼網膜剥離、肝不全、高血圧、糖尿病、直ちに人間ドック収納」。8月・「琉歌セミナー85」演習行。「庶民烈伝」取材のため九州へ。9月・「目白の孤愁人の独占インタビューなど回路あれど美意識にかなわず。"小説書き"に転向して税務署に奉仕するのは老残のテーマ。体力の続くかぎりルポルタージュ・ライターの初志を貫きたき存念」と借金のお願い。中東取材に出発。『鞍馬天狗のおじさんは/聞書アラカン一代』(徳間文庫)上梓。

1986
昭和61
56歳

1月・『にっぽん情歌行』(ミュージックマガジン社)上梓。中東ベカー高原へ。3月・中東取材。『聞書・庶民烈伝(3)/牧口常三郎とその時代/衆生病む・夏の巻』(潮出版社)上梓。7月・「小説中東水滸伝/天使の爆破」(問題小説)執筆。11月・「庶民烈伝」(潮)連載終る。12月・「重信房子の半生記/私はじゃりん子チエだった」(サンデー毎日)連載開始。

1987
昭和62
57歳

1月・「マタバ/環太平洋国際革命家フォーラム」準備委員会のためリビアへ。「87ヨコハマ中華街/竹中労たべある記」(毎日グラフ)。2月・フィリピン革命一周年取材に東南アジアへ。4月・リビアで開かれた「マタバ」の議長として基調報告。帰国途中立ち寄った大英帝国では査証拒否強制退去。『聞書・庶民烈伝(4)/牧口常三郎とその時代/襤褸の巻・秋の巻』(潮出版社)上梓。6月・東南アジア、フィリピンへ。8月・三井記念病院入院。「胃癌、肝硬変、重度の糖尿病に食道静脈瘤も発見され余命3年長くて5年」。9月『美空ひばり』(朝日文庫)上梓。10月・「キネマ旬報裁判」和解。12月・「緑の書シンポジウム」予備会議のためリビアへ。

1988
昭和63
58歳

1月・リビアで開催された「緑の書シンポジウム」に出席。2月・「花和尚の毒手一喝」(大法輪)連載開始。4月・竹中英太郎没。6月・胃痙攣、呼吸困難、肝性脳症を併発し三井記念病院に緊急入院。腹膜炎も併発し入院一カ月。9月・鎌倉市高野に移る。10月・沖縄へ。11月・「宮崎勤・連続幼女殺人事件の"真相"を撃つ」(噂の真相)執筆。

1989
平成1
59歳

3月・「竹中英太郎回顧展」(甲府)企画構成。4月・「テレビ観想」(ダカーポ)連載開始。「竹中英太郎回顧展」(〜7月、東京)構成。6月・美空ひばり没。「さようなら美空ひばり」(毎日新聞)他マスコミに追悼文・コメントを発表。7月・「竹中英太郎について」(NHK熊本)出演。三井記念病院へ検査入院。11月・「大城美佐子うたう会」出席のため沖縄へ。12月・三井記念病院入院。沖縄取材。

1990
平成2
60歳

1月「夢見る胎児/夢野久作と竹中英太郎」(NHK教育TV)制作協力出演。「現代の顔」(NTV)出演。「夢よなぜ踊る/夢野久作と竹中英太郎」(NHK教育TV)出演。2月・三井記念病院入院。「竹中英太郎回顧展」(熊本)で講演。「平成名物イカ天」(TBSTV)にゲスト審査員。3月・「別冊イカ天」(TBSTV)で「たま」と対談。4月・「竹中労のページ」(噂の真相)連載開始。三井記念病院入院。5月・「たま」演奏旅行同伴取材。「ミッドナイトジャーナル」(NHKTV)で「たま」を語る。6月・三井記念病院入院。「笑っていいとも」(フジTV)出演。7月・「ニュース・バトル」(全27回、TV朝日)最終回出演。8月『百怪我ガ腸ニ入ル/竹中英太郎画譜』(三一書房)上梓。10月・「コザ独立国大統領」照屋林助より「鎌倉大使」拝命。旧制甲府中学同窓会で甲府へ。三井記念病院入院。11月・「BSヤングバトル」(NHK衛星TV)に「竹中労が選ぶベストバンド20+2」構成出演。『「たま」の本』(小学館)上梓。12月・「イカ天VSヤングバトル」(NHKTV特番)出演。『「たま」の本』出版記念パーティ。三井記念病院入院。

1991
平成3
61歳

1月・「唄白書91/南島歌謡論」取材のため沖縄・奄美へ。2月・「沖縄・魅惑のサウンド」(NHK衛星TV)のため沖縄へ。「テレビ観想」(ダカーポ)連載終了。「たまと世紀末」(NHKラジオ)を語る。3月・「実践ルポライター入門」(ダカーポ)連載開始。三井記念病院に緊急入院。『百怪我ガ腸ニ入ル/竹中英太郎画譜』推理作家協会賞受賞。4月・遺言書を作成。「通夜葬儀一切無用、死に顔は見せるな」。「島うた特集」(エスクァイア)取材に沖縄へ。「ダカーポ」「噂の真相」連載休止。那覇で食道静脈瘤より出血、三井記念病院に再入院。「BSヤングバトル」(NHK衛星TV)にVTR出演。5月・19日午後9時58分、肝臓癌のため死去。6月・絶筆「実践ルポライター入門・第5回」が「ダカーポ」に掲載される。「特集・南島音楽紀行」掲載の「エスクァイア」発売。『無頼の墓碑銘』(KKベストセラーズ)上梓。9月・「竹中労別れの音楽会」(川口リリアホール)開催。


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