著作紹介
ここでは、以前の著作でなく、新しく出された著作について紹介していきます。とにかく、古本屋さんでは著作にはいい値が付いていまして(^^;)、なかなか読んでみようという気にならないのが問題だと常々思っていたもので。ただ、新刊も時間の経過とともに古書になっていきますので、興味を持った方は思い立ったらすぐに買われるのがいいと思います。別に私は出版社の回し者ではありませんので、その点はお間違いなく(^^;)。
この本が出る少し前に、朝日新聞に「竹中労は終わらない」というシリーズものの特集記事が出ました。竹中労事務所が積極的にアピールしているわけでもないのに、いまだにその存在を忘れずに読み継がれているということは、今の世の中にまだ必要なものを内包しているということになるのでしょうか。こうして新しい著作が出るということも、そうした傾向を感じとった出版業界の方々のおかげであり、ファンとしては素直に喜びたいと思います。
この、いかにもとって付けたような題名の本は、関係した人物の追悼を中心に、人物について書き綴った文章をまとめたという構成になっています。三島由紀夫・斉藤龍鳳・梶山季之・高橋鉄・羽仁五郎・嵐寛寿郎・美空ひばり・竹中英太郎など、当時に書かれた媒体の中から引っ張り出してきているのですが、実にバラエティに富んだところに書いていたということが改めてわかります。
竹中労さんの交友関係というのは長く読んでいる読者の方々にとっては言わずもがなのことですが、特に最近になって竹中労さんの本を読まれた方にとっては、この人はいったい誰なのか? といった人物も出てくることでしょう。ここに書かれている人たちはそれぞれ、竹中労さんがその存在に敬意を払われた方々です。どんな人と付き合うかでその人の人となりが出るということを考えれば、この本を読んで本文中にある人物に興味が湧いた時には、ぜひ図書館やインターネットで調べ、その生きざまというものを感じとっていただきたいと思います。そういう意味では、この本は読む方に新たな世界の扉を開かせるような効果を持っているのかも知れません。(2007.9.12)
美空ひばりの十七回忌に合わせる形で、現在入手困難になりつつある、朝日文庫の「増補 美空ひばり」に「竹中労がえらぶ・ひばり映画ベスト10」という文章が付録として付けてあります。映画については毎年6月になると、NHKの衛星放送で繰り返し放送されるので、今後興味のある方はぜひとも見ることをおすすめしておきます。
完本とうたってあるように、今までこの本に出会ってこなかった人のため、これまでに出た「美空ひばり」の内容はすべて網羅されているということで、とりあえずこれを買っておけば、コレクション目的でどうしても持ちたいという方以外は、わざわざ弘文堂や朝日文庫のものを購入する必要はありません。
今年もまた、単なる特番だけではなく、TBSがドラマ化までして美空ひばりの人生を伝えています。往年のファンにとっては嬉しいことでしょうが、こういうものを見た若い世代はどういう反応を示すのでしょうか。そういう意味では、おじさんおばさん達がなぜこれだけ美空ひばりという歌手にこれだけ入れあげるのかという疑問に答えるテキストとしてこれから読まれてもいくのかなと思います。
あと、これは中を読んでもらえばわかることだと思いますが、この本は美空ひばりの事だけを書いたものではなく、日本における歌謡曲黎明の時代からしっかりと書かれています。時代によって人々はどんな音楽に熱狂していったのか、そこから社会を見ていくと、決して学校の教科書からは見えない歴史があらわになっていくるのがわかっていくのではないでしょうか。そして、そうした生きた歴史を感じるということが、これから起こってくるであろうさまざまな問題に対する解決への道しるべになっていくのではないかと思っています。
そんな中で美空ひばりの映像はまた来年もさまざまなメディアで露出することになるでしょう。文字だけで感じるということはどだい無理なことで、できればこの本の中で紹介されている歌曲を聴くことによって、更なる理解が深まっていくようになることと思います。(2005.6.12)
- 『琉球共和国』(ちくま文庫・1200円+税)
今、手元に1975年に開催された沖縄海洋博記念の100円硬貨が3枚あります。といっても、開催当時に手に入れたものではありません。先日、銀行の両替機に1000円札を通したところ、10枚のうち3枚が海洋博記念のコインだったというお粗末。先日テレビの鑑定団で、このコイン、一体いくらの価値があるか鑑定の結果、額面以外の価値はまるでないとのこと。
先日、沖縄に赴いた時には、海洋博の象徴だった海に浮かぶ島・アクアポリスはすでにありませんでした。この本の中にある「沖縄メモ」は、1972年の沖縄県の誕生で終わっていますが、あれから30年経ってもなお、沖縄はヤマトの方を見つめ、従属していることを潔しと感じている節があります。
NHKの朝ドラでも沖縄のヒロインが登場し、ヤマトの歌い手であるTHE BOOMの『島唄』という曲がヒットする。むしろ今では、「島唄」といえば数多くの島の唄ではなくTHE BOOMの方を連想する人が多いのではと思うほどです。大和の地に住む若者がそうなら別にどうということはありませんが、沖縄の若者がなぜこういう楽曲を受け入れてしまうのか私にはちょっと理解しかねます。意地悪く考えると、それだけ日本発の文化というものが沖縄に浸透してしまって、沖縄独自の文化というものをすでに駆逐してしまっているとは言えないでしょうか。だからといって沖縄はやはり日本ではないのです。アクアポリスのように最初は燦然と輝いていたとしても、長い歳月の中で朽ち果てて人知れず消え去る運命になりはしないでしょうか。
昨年(2001年)沖縄を訪れた時には、空港の建物が新しくなっていました。考えるまでもなく例の沖縄サミットに伴う立て替えであったのですが、そのおかげで空港前にあった格安の食堂はなくなっていました。今沖縄は、観光客誘致に懸命です。さらに、名護市などはIT技術を基盤とした企業誘致を呼びかけているようですが、日本政府のいうがままことを行って沖縄経済の発展はあるのか疑問に思います。ITというのなら、むしろ国家を飛び越えてひろく世界に対するビジネスモデルを構築することによって沖縄再生の芽というものは出てくるのではないかと思います。ただ私がこんなことを書いていても机上の空論です。竹中労さんが書かれたように、沖縄の人が独自にやらなければ、さらにこの状態は続くでしょう。願わくば、多くの沖縄の人たちに読んでいただきたいものですが。(2002.7.2)
- 『芸能人別帳』(ちくま文庫・950円+税)
画像を小さくしてしまったので、帯の下にある文字が見えなくなってしまいました。実はここには、『個人情報保護法案・上程記念出版!!』と書いてあるのです。もし竹中労が生きていたら、誰よりも真っ先にこの法案を廃案に持ち込むため、あらん限りのエネルギーを費やしていたでしょう。
表題が示すとおり、この本はたくさんの芸能人の話に溢れています。中には個人のプライバシーに関わることも書かれていますが、これらの文章が書かれたのが今からおよそ30年以上前ということを考えると、今で言うゴシップ関連の話題について問題にするのはばかげています。多くの場合それは時効となっている話であり、もうすでに故人になってしまった人も多くいます。世代によっては全く名前も知らない人物もいるかもしれません。しかし不思議なもので、独特な文体によって語られると、一体どんな人なんだろうつい興味がわいてしまう。そこが芸能記者としての竹中労さんの魅力なのでしょう。
私たちの周りでは今、いろんなタレントが活躍しています。しかし、世代の移り変わりとともにほとんどの人たちは忘れ去られていくことでしょう。果たして今の芸能ジャーナリズムは、自分のやった仕事をどう伝えていくのか考えているのでしょうか。一昔前(といっても、せいぜい5年か10年前のもの)の映画や芝居、音楽でもいわゆる名作と呼ばれるものはライブラリを調べれば見られますが、そうでないものというものは、はっきり言って個人のライブラリに頼るしかないような状況であると私は思います。図書館へ行っても見つからない資料が、インターネットを検索すると、単なる個人のホームページから出てきたりする。それら、ホームページ作者の多くはファンというアマチュアであるのです。膨大な取材をし、データをたくさん持っているはずのプロはどうなっているのと言いたくなりますね。
当時はプライバシーの侵害だと当人から反発を受けたことでも、時間の経過とともにそれはその時代を映す出来事となります。また、時代は変わっても根本的なタレントと事務所の仕組みというのにはまだまだ変わっていない部分も多くて、それがこの本のもう一つの魅力になっています。移りゆく芸能界の話でも普遍的なことを語れてしまうというのは、今読むからわかることかもしれませんが、だからこそ、安易にプライバシーの尊重と言うことを芸能人が言って欲しくないですね。でも法律ができたらこういう文章自体気に入らなければボツになってしまうでしょうから、それが心配ではありますが。(2001.6.9)
- 黒旗水滸伝 大正地獄篇(上)(下) (皓星社・各2,500円+税)
出るという話が出てから一年半以上も待った計算になりますが、こうして実際に出たものを手に取ってみると、ちゃんと出てよかったとしみじみ思います。この作品は月刊誌『現代の眼』に長期連載されていたもので、単なる劇画に見えるかもしれませんが竹中さん筆による下段の文章がものすごいボリューム。ある時は上の絵とともに、またあるときは絵で伝えられないことを補完し、またあるときは独自の境地で舞台となる大正時代を語ってしまいます。
そもそも大正時代というのはどんな時代だったのでしょう。大正デモクラシーという言葉が示すとおり、いろんな思想が混沌として非常にスリリングな時代の雰囲気を醸し出していたのではと私は推測します。今の時代、どの政党もこの閉塞状況を打破する提案を出してはくれませんが、この時代は一口に社会主義といっても様々な思想を持った人たちがいました。たった一人で闘った難波大助をメインに持ってくることもすごいですが、基本的にはそれまで社会主義運動の主流とされてきた人よりも、そうした党派争いに敗れた、大杉栄はいいとして村木源次郎や和田久太郎など、従来とは違った側からアプローチされています。勝った側が負けた側の存在を消し去ろうとするのは歴史の常で、大正という時代は多くの人が知らない実にバラエティに富んだ人たちが活動していたのでした。仕方がないから共産党に投票するような状況ではなかったのであります。更に、左の側だけでなく、頭山満や北一輝、そして杉山茂丸(ホラ丸)など右翼の人たちの中にも非常に積極的な考えを持っていた愛すべき人たちが多く存在しましたし、劇画なり写真が多くちりばめられているこの本の特殊な形態(写真参照)は登場人物の姿を生き生きと私たちの前に映し出してくれます。
物語は東京浅草の十二階という関東大震災とともに崩壊してしまった娯楽施設周辺(当時の私娼街)や、現在は呼び名が変わってしまった日雇い労働者が集まる街・山谷などで展開していきます。まだ日本がお金持ちの国ではなく、よその国から食料を変えない時代には天候の影響ですさまじい飢饉が発生しました。そうなると農家では人減らしのために都会へと流れていきます。今あげた場所はそうした生活に窮する人たちが流れていく場所であります。今でこそ日本という国はどこへ行ってもテレビの普及の成果か性格程度が変わらないように見えますが、今でも農家では出稼ぎをしないと家族を養えない状況がある場合もありますし、出稼ぎで東京へ出てきたものの田舎に帰らずに山谷周辺をねぐらにする人たちもいます。更に言うと最近では更に状況は深刻で、東京・横浜・名古屋・大阪・福岡などの大都市だけではなく、地方都市にもどこにも行くあてのないホームレスが流れてきています。問題は今も脈々と続いていますし、その問題は日本だけにはとどまりません。浅草十二階下の風景そのままが繰り広げられている国だって私たちは容易に発見できるわけですから。
ただ、大正時代にはこうした状況を憂い、命を懸けて生きた様々な主義者たちが現代より多くいました。彼らの生き様から今の私たちが得るものはとんでもなく多いような気がします。竹中労さんとかわぐちかいじさんは、それだけのものを私たちに伝えてくれているのです。読んで難しいなと思われた方は概刊のちくま文庫『断影・大杉栄』とともに読んでいかれることをおすすめします。上下巻で5000円という価格も、これだけの内容ならば納得ですよね。(2000.9.5)
- 沖縄島唄の伝説 〜海・恋・戦〜 嘉手苅林昌全集(ビクターCD・16,000円+税)
ここでは、まず自分のことから話すことにしましょう。私にとっての沖縄島唄というのは、最初全然訳がわからないものでした。言葉がわからないのはもちろんですが、私の耳にはどの曲も同じようなメロディに聞こえてしまったのです。
これは一体どういうことなのか、自分なりに分析を試みてみますと、それまでの私が聴いていた音楽とは全然違うもので、それで脳がパニックを起こしてしまったのではないかと(^^;)。そうでなくても私たちはメロディを中心にしたコンパクトにまとまった音楽を日常的に聞いています。ヒットナンバーは例外なく西洋音楽を基本としています。まず私たちの原体験の音楽ですら西洋音楽の影響を受けた唱歌でありますし。更にそうした音楽はテレビで演奏されることが予定されていますから、時間の制約もあります。歌番組でアイドル歌手たちは、ある時は口パクというレコードの音に合わせて口をさも歌っているように開くだけということを行っていたりしました。放送時間が決まっていますから、事前に演奏時間がわかっているものを使うほうが安心だったのでしょう。しかし、そういった音楽ばかり聞いていると、違うものが目の前に来た時に面食らうことになります。私の場合それが沖縄島唄であり、フリージャズだったわけです。
さて、ここで嘉手苅さんのCDに目を移します。最初は訳のわからなかった島唄の数々も、聴き込んでいるうちにそれぞれの違いというものがわかるようになってきました。少しでも音楽を理解しようと思って、近くの図書館から沖縄研究者が現地で採譜してきた島唄の数々が掲載された本を借りてきました。そうして、竹中労さん監修の島唄作品集と比べてみたのですが、ここでまた私はつまずくことになります。
嘉手苅さんのことをよく知っていらっしゃる方ならよくお分かりだと思うのですが、嘉手苅さんが歌っている歌詞が、ごく一般に知られている歌の歌詞と違う部分があるのですね。こちらはまだその当時、きちっとした西洋音楽の影響から抜けきれてませんから、このおじさんどうしてちゃんと歌わないのかな(^^;)と思いながら聴いていたわけです。でもそうした考えというのは全くもって浅はかであったということが次第にわかってきました。
ここで考えるまでもなく、レコードも楽譜もない時代から歌はありました。その当時はテープレコーダーもありませんから歌を伝えるには人から人へと口移しで伝わったということになります。伝わっていく中で間違って伝わったり、伝わったものとは全然違う歌詞をつけて歌ってしまったこともあったでしょう。特に酒の席で歌った歌だったら、歌い手の気分やその場の状況により、受けを狙って変な歌詞にして歌ってしまい、それが伝わったという場合もあるかもしれません。つまり歌詞やメロディが変化していくことは、歌が歌い継がれるにあたってはごく当たり前のことで、そうしたことがなければその歌は長い命をながらえることはできなかったのではと思うのです。嘉手苅さんが島唄の神様と呼ばれているのは、今の音楽家たちが忘れてしまったそうした精神を持っているからではないかと考えるにいたったというわけです。
そうした変遷をたどる意味でも、今回のボックスセットについている解説と歌詞の聴き取りというのは重要です。私でもウチナーグチ(方言のこと)を理解するのは難しいですし、嘉手苅さんや他の歌い手さんがどう崩して演奏したり歌を歌っているかを解説書によって知ることができます。解説書にも書かれていますが、嘉手苅さんは二度と同じ演奏をしなかったということです。その場の雰囲気によってどういった演奏になるか。ライブだけでなくスタジオ録音でさえこうした違いがあるのですから、いったい嘉手苅林昌さんという人の頭の中はどうなっていたのでしょうか。
この夏、沖縄で先進国首脳会議があり、沖縄に全国の目が集中しました。夜のニュースショーでも沖縄からの中継が繰り返されましたが、そのなかで思わず苦笑してしまう出来事がありました。テレビ朝日のニュースステーションの中継で、屋外のコンサートのステージに上がっているのはこのボックスセットでも嘉手苅さんと好演を繰り広げている登川誠仁さん。多くの聴衆を前にしていい気分で喋っているところに、レポーターの渡辺アナウンサーがステージ下から割って入ろうとしたのですね。これこそまさしく野暮の骨頂で、高速道路を猛スピードで走るトレーラーに飛び乗る如くの暴挙だと私は思ったのですが(^^;)、予想通りレポーターは登川さんからまったく相手にしてもらえず、テレビの中継などまったく関係ないペースでステージは進行していきました。逆にテレビを見ているほうとしては何だか締まりのない中継になってしまったのですが、アドリブありの島唄をテレビで生中継するなら野球のようにスポンサーの好意にすがって番組を延長しなければ無理でしょう。本来は音楽自体がそういったもので、紅白歌合戦のように時間が決まっているだけでなく歌っている歌詞をさもそれが当然のごとく垂れ流していては、音楽の持っている力というのはテレビでは伝えることが難しいのではないでしょうか。ここにはテレビでは決して聞くことができない音の洪水があります。現地で注意深く録音されたという波の音とともに、じっくりと聴いていただきたいものであります。(2000.9.2)
- 『断影 大杉栄』(ちくま文庫・740円)
大杉栄といっても、ピンと来ない人のほうが多いのでしょうね。時代的には大正時代に活躍した人ですから、学校で勉強するにしても、詳しくやっている人はそう多くはないはず。しかし、学校で教わることをすべてだと思ったら大間違いです。学校で教えてくれない歴史の面白さを私は労さんの著作から教えていただきました。
考えてみれば、私たちが過去の偉人と考えている人もその時代においては決して聖人ではないし、間違いをしでかしたり失敗したりもします。それがいつの間にかその業績を語り継いでいく人たちの手によって、巧みにそうしたことを排除していってしまうのですね。第二次世界大戦前、大正の時代というのはどういう時代だったのか。私の場合はそこに生きる人の生々しさを感じていくにつれ、次第に憧れにかわっていったのですが、みなさんはどうでしょうか。
アナーキズムといっても難しいことではないと私も思うのです。解説のなだ いなださんも書いていらっしゃいますが、規則規則でがんじがらめになってしまえば、やはりなんとかこの状況から抜け出したいと思うでしょうし、何もかも人のいいなりになるというのにも抵抗があるでしょうし。問題はどうやってそのストレスの基を解決していくかでしょう。ある規律から抜け出すために、新たな規律を持った集団に頼るというのは全く馬鹿げています。そうではなくて、人間本来が持っている自由になろうとする意思をもって問題を解決していく方法を見つけようとしたら、やはり当てにするのは過去にそういうことについて考えた人のやったことを参考にするのがいいでしょう。歴史というものは、そうやって今を生きる人間の問題に、解決の手だて(解答では断じてない)を与えてくれるものだと思っているのですが、大杉栄の生涯を見ていくことで救われる人は必ずいることでしょう。
この本は帯にも書かれていますが、以前現代書館から出たFOR
BEGINNERSという一連のシリーズの中の『大杉栄』のために書かれ、そのうち本編に載せられなかった部分を主に編集されています。また、以前の現代書館の本の大部分では、本の後書きの部分がうまく開かなくて、一部書いていることがわからなくなっているので(写真参照)、現代書館版のあとがきも完全な形で収められています。本の題名からなかなか大杉栄に関して予備知識のある人以外は手に取ってくれないかなという危惧もありますが、全然そのへんの歴史を知らない人に手に取ってもらいたい本であります。(2000.3.9)
- 『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫・760円)
ついに発売になったというのが正直な感想ですね。それまでの古書店での価格は壱万円という話もあって、いくらファンとしても適正価格ではないと思っていたのでした。1991年に労さんが亡くなり、とある出版社から再版の話があったのですが、結局かないませんでした。それには、今回の再版の一番最初に書かれている差別用語の問題があります。現在は使ってはいけないとされる数々の用語。言葉じりをとらえて、抗議をしている人のことを恐れるあまり、私たちは徐々に古典の名作を読むことができなくなるかも知れません。そんな中、発表されたままの言葉の使い方で再版ができたというのはほっと一息ということでしょうか。
で、内容です。初版と比べて詳しい注がつき、ダカーポでの絶筆となった「実践編」が新たに収録されているほか、新しく追加された文章はファンにとってはこの上ない喜びです。また、雑誌などでの無署名記事や雑文の類を除く、竹中労の全仕事が網羅されているのはやはり嬉しい。そしてその最後に、今後の出版予定も書いてあるのでこれも楽しみですね。さしあたって黒旗水滸伝は、泳げる季節ぐらいには出るのではという話は聞いています。
しかし、本当に久しぶりの著作の復刊なので、一気に読んでしまうのが惜しくもあります。文章読本ではありませんが、実際に文章を書くのに役立つノウハウも詰まっていますし、またすぐに入手困難になってしまうでしょうから、悪いことは言いません。ここをご覧になった方は800円の投資を惜しむべからず。じっくりと読んでもらって竹中労さんの人となりに触れてください。
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