『銀座出版社版・堕落論』を読む

 

銀座出版・堕落論

 なぜこんなものが家にあるのか(^^)。血眼になって古本屋さんを回ったわけではありません。たまたま骨董品とともに古本屋もやっている静岡市内の某店(現在は営業しているのかちょっとわかりません)の前を通ったら、安吾でなく織田作之助の『世相』初版本が店ざらしになっていました。慌ててその本を握り締め、値段を聞いたところ、店のおじいさんは1000円という値段を提示してきました。むろん、速効で購入したことは言うまでもありません。それ以来、ちょっとした時間があると、鰻の寝床のような店内を深く分け入って、さまざまな本を探しました。何と高橋鐵コレクションの本とかも見つけたりして、これはもしや安吾もあるのではないかと思ったら、これもまた無造作に棚の上に置かれていたのですね(^^;)。さすがにちょっと震えながらカウンタにもっていったところ、初版でなく三版であったからなのか、確か2000円ぐらいだったと思います。実はこれより前に、鎌倉の古本屋で中央公論社の『白痴』初版本を入手していまして、この値段が2500円でしたからまあそこそこの値段だったのでしょう。ただ、古書の相場には疎いので、現在もこのくらいの値段で入手できるのかちょっとわかりません。たしか安吾では竹村書房の『黒谷村』がものすごく高いとかいうことですが、そこまでお金を出すならぜひ直筆を手に入れたいものです。まあ、絶対無理でしょうが(^^;)。
 さて、ここでは『私はこんなものを持っているんだ、うらやましいだろ』と自慢するためにわざわざコンテンツを開いたわけではありません(^^;)。改めて読んでみると、実はこの本でなければ分からないことが結構ありましたので、このページを通じて皆さんにも内容を楽しんでいただこうかと。(2000.7.11)


堕落論 書き出し

 あまりにも有名な『堕落論』の書き出しです。こちらは全集でも読めるこの単行本の後書きで、安吾はこうした細かなレイアウトにも口を出したことを言及しています。

著者印

 いきなり最後のページに飛びますが、以前はどの本にも著者の印が押されていたのですね。もうすっかり薄くなってしまい、なかなか判別が難しいのですが、こうした印ひとつをとっても興奮してしまうのがファン心理というものでしょう(^^)。

奥付

 最初にも書きましたが、残念ながらこれは初版ではありません。文字が小さいので改めて書きますが、印刷が昭和22年6月20日、発行が同じく6月25日。で、三版の発行が同じ年の9月25日なのでした。凄い勢いで読まれていたということがこんなところにもうかがえます。


エスキス・スタンダール

 これで終わりだと思った方、残念でした。さあ、いよいよ本番です。この写真は本の目次の最後の部分ですが、アテネ・フランセ時代の友人・長島萃{あつむ}のために一章を割いています。ここにある『長島の死に就て』だけでなく、『暗い青春』にもその断片が記されていますのでその人物像について私よりも多くのことをご存じな方は多いはずです。ただ、安吾を読んでいる人にとってはどうしても安吾によって書かれた長島萃しかわからないという事でもあるわけです。
 幸いな事に、ここに長島萃の遺稿が掲載されています。一体長島はどのような文章を書いたのか、この本をお持ちでなくて興味をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。この遺稿にも著作権が発生する事を考えても、作者の死後50年という年月は既に過ぎていますし、ここで紹介することはやぶさかではないと考えます。というわけで、以下に長島萃氏の『エスキス・スタンダール』を再録します。注意してテキストに起したつもりでありますが、もしかしたら誤変換・誤記・誤字脱字の類いが存在するかもしれません。そうした点でお気づきの点などございましたら、こちらまでメールにてご連絡ください。

★本文は『銀座出版社・堕落論』を底本とし、校訂にあたっては歴史的仮名遣いを現代的仮名遣いに、現在では使わない旧字体を新字体に編集者(寺田)の責任の下変更した。また、作品の題名など一部の漢字は旧字体のままとした部分もある。カタカナ表記についてのみ原文のままとした。

★ルビについては{●●}の形で表記、傍点についてもその旨を注記した。

 

エスキス・スタンダール

長島萃(あつむ) 遺稿

 

 スタンダールの芸術がもつ気魂と芸格はいかにして与えられたか、私には分からない。恋愛心理の描出から観ても、その点彼は殊更ふかく掘りさげているわけではない。素朴であり不純ではないけれども、彼の恋愛観が完全だとは思えない。人の恋愛における心の動向{うごき}、真実の唯一無二の心の動向{うごき}を本質的に把握しているにも拘らず、そのさきを狙いつづける凄みは彼の作品から滲みでることがない。筋の複雑な波乱極まりない展開は、それ自身として価値の高いものではない。スタンダールの場合には筋が組みたてられるのでなく、おのづから組みたつところから価値がうまれるのである。ここからスタンダールは理解されてくるかも知れない。
 彼は性格の型を書きわけるのである。これらの性格の型は現実生活のうちに探求され発見される。そして、さまざまな性格は環境とそれら自体のもつ妥協性に支配されて本来の型を歪められ、そのままにしてほろびるのだが、質は決して更められてしまうものではない。それらが現実の一隅に見いだされるのも、事実は、やむにやまれない性格の本質があるとき表面に押しいだされて、観察者の目をみはらしめ彼の心をうつからである。スタンダールは拾いあげてくる、彼の芸術家の魂を透して濾過する。この魔術によって性格は本来の姿にたちかえって現実のうちにまた投入され、そこであらあらしく呼吸しだす、現実と格闘をはじめる。そしてスタンダールの想像力と鋭敏性によって、種々なケースがあちらこちらに蜘蛛の巣を張り、それらを引摺り引廻すので、真剣勝負がつづけられる。魂は勝つか負けるか不明である。絶えずおのれを飛躍させながら試みなければならない。
 かようにして、事件の多岐多様な展開がおのづから組みたてられてくるのである。スタンダールの文章につねに夾雑物があり澄みきっていないのは、彼がそれを狙わないことに基因する。彼の構成は魂が純一へかえるまでの過程の上に置かれているので、魂はしばしば自ら求めて重大な誤解をおかしているのを、スタンダールはヘイチャラな顔付で承知しぬいている。あれもこれも必要である限り絡みあい錯綜しなければならないのだ。そして私たちは息をつめながら跪いてゆくうちにともすれば眩惑されて、スタンダールの姿を見失ってしまうのである。
 スタンダールの書きわける性格の型を『赤と黒』に限局して考えればあきらかに二通りであろう。ここで断っておきたいのは、私は三年以前に読んだきり彼の作品に手を触れたこともないので、それゆえ私の議論を杜撰と看做すのは間違いであって、私は読みつつあるときよりも狙いつづけることによって、スタンダールに浸透することができたように信じているのである。ただ人物のひとりひとりを記憶していないために具体例をあげてはっきりとしたことが云えない。私は二通りと書いたが実際は三通りだろう。ひとつは勝利などという目的をめざす型であり、ひとつはそれ自身を弁え満足する型であって、残るものは粗雑にいえば一般型でこれは論じない。
 理想を追究しずにいられない性格がある。これは正確な云い現わしでない。スタンダールの作品中のこの型の人物が、到達しようとするところの理想は、ナポレオンの勝利、あの世界征服に対する英雄主義的渇慾である。数世紀にわたる「偉大」への憧憶である。これは睥睨しなければ満足しない。拍手喝采が絶対に要求される。驚嘆や畏敬が一身に集注されなければ癒されない。魂と虚栄心が根本において混同されている。ここでまた、『赤と黒』におけるサロメ、巻尾でギロチンにうち落とされた首に接吻をあたえる令嬢は、後に私が暗示する性格の型に類似しながら、その萌芽をあらわしているにも拘らず、この第一の型に属するのであるらしいと註をしておく。詳論はいましない。
 第二は理想をもつことのない型である。つねに充実しているか全然空とぼけているか、どちらかの型である。本来の相貌において現実と決して妥協しないのだが、飛躍をうながす対象が眼前に現われるまで全然静止している。この対象があらわれた瞬間、飛躍しずに飛躍してしまう。不可思議な道程と速度をもって一瞬に飛躍を成就すると、徹頭徹尾本来の面目を発揮しだしてくる。外見上、魂は、宿命によって結ばれるべき対象へ遅々としてしか歩み寄らない。おづおづと撫でまわし遠方から眺めたり接近したり、なかなかもって断定しない。やがて明瞭に意識しだすと現実との食違いから極端な苦悩へ追いやられるのだが、これが実にもの凄まじいのである。それは革命のお祭騒ぎではない。ひたすらに苦悩を苦悩する退っ引ならない{のたうち}(原文は傍点)なのである。童{こども}は「好きであるべき」人をチャンと心得ている。その人の前にはじめて立った童は誰に対してよりも羞恥を感じる。無理に近づけしめようとする努力は童をおそれさせ、しまいには泣き喚かすだけでしかない。羞恥と恐怖と苦悩は、愛や「完全」と隣合せにひそんでいる。私はいま単純素朴な魂を取扱っているのであるが、この魂にあっては一切が宿命によって決定され用意されていることと、脱皮の前後における遅鈍さやもの凄まじい苦闘との間に、何ら矛盾は存在しないのである。この種の魂は「おのれ」を監視し分析し意識面にのぼせることがない。それ故、心が直接に心を知っているのである。これは単なる逆説でない。かかる性格は「試み」試みられることをまったく要さない。ひとはつねに応答{こたえ}をもとめなければならないのであるが、禅における答案は懊悩に懊悩を重ね捜索に捜索を恐らくは血みどろになりながらつづけるうち、ある無我の瞬間に忽然とまた湧然と提出されてくるのだが、うえに述べた型の性格はいささかの答案も必要としない。すでに書かれているのである。スタンダールはレナール夫人にこれを象徴している。
 私はもう議論が厭になってきたけれども、ともかく進行させよう。ぜひ言いたいことがあるのである。
 前者はその様相が複雑である。しかし私は驚嘆しやしない。同情し理解し得ても、格別感動しない。静思すればその心の動きはいつでも私の掌中ににぎることができる。後者が単純素朴であることはさきにいった。しかもその実体を示されたとき、私はみづからを見失う。征服される。私の心の深みがそれに呼応して、あまり感動した私は不可滅の実在を信じだす。これは最高の美であって唯一の美である。それは生死からも超越して、白く崇高な光芒を遥か宇宙の圏外までも放射する。
 間もなく私が暗示する型の性格もこの前に出てはまことにだらしない。なぜなら極限において我儘だからである。不従順だからである。が、しかし宿命は一切の粉飾を粉飾して厳また燦と君臨するではないか。宿命の鋭くまた四大にとどく一喝を、慈母の子守唄と聞く者は幸せなるかな。
 私の悪魔に取り憑かれたる魂と、あの忍びやかに見すぼらしい、しかしひとたび無形の大道に突立ちあがればこのときその「完全」さをもって私の愚かな魂を脅死せしむるほど凄まじく悲痛な相貌{すがた}にかえる魂とを比較せよ。もっとも優しく美麗なる鐵石よ。もっとも懐しく、もっとも厳しい故郷よ。私はお前を礼拝する。
 スタンダールは時代に鋭敏であった。これは彼のもっともよき特徴である。しかしながら、彼がかかる魂の息吹きを感じなかったとしたら、もっとも純粋に表現し得なかったといえ、彼がそれを正確に狙わなかったとしたなら、彼の芸術は価値を失ってしまうのである。狙い得、現わし得たことは彼の魂の偉大さ、純粋さを立証してあまりある。
 そしてスタンダールの性格は同時に、第一の型にも属しているのであって、このことが即ち彼のもっともよき特徴をうみいだしたのである。彼は政治に、社会に、宗教に、村長の家に、貴族の家に、要するにほとんど到るところに、彼の魂を傷つけられることなく躍りこむことができた。
 また一言加える。心、性格、魂、これらの言葉若しくは観念はすべて比喩にすぎない。ひとつの大実在を比喩的に現わし得るにすぎない。私一流の解釈によれば、「壁の聲」「右手のとどろき」はそれの象徴である。
 スタンダールはついに性格のふたつの型しか書きわけなかったようである。『シャルトルーズ・ド・パルム』の主人公は、複雑な過程を歩んだ単純素朴な魂の所有者であった。
 私のスタンダールに関するエスキスはもはや結尾して差しつかえない。書き足りないことは承知であるが、私の彼に対する考えの基本は述べてしまったらしい。私はスタンダールの芸術の価値を追求することから出発した。スタンダールの芸術は最高の地線に地位する。しかし、私には「分ら」ない箇所があったのである。私は考えはじめた。それとともに私は書いた。私は切られなかったようである。
 私はスタンダールにむろん傾倒していない。私は「始終」脱出してゆく性分である。私はつねに不安に駆られながら前方へ進みでる。そのとき、スタンダールはあらゆる性格の型に透徹したのであろうかということを疑いだす。そんな筈はない。第一、ひとは生きているではないか。
 私はアンドレ・ジイドに想到する。ジイドの苦悩と渇慾は征服や勝利のあちら側へ達している。それらの境界を突破している。複雑を経て単純へ回帰するためにジイドは命を賭けて冒険する。格闘する。透明な血潮を垂らしながら。命を賭けることは悲劇ではない。然し、それが「意思」されるらしく思いあやまられているに拘らず、これはひとつの業苦である。現実の極点を更に飛躍してみ給え。死であるか。否。強烈な生であるか。そうとも云えるであろう。私は私である。このときに限り、私は――である。余白である。そしてまた私は限りなく優しい。涙を一杯眼にためて顫えている、柔かく温かな皮膚をもった兎でもあろう。
 私の肉体は甚だ疲労している。頭は貧血を起してぐらぐらする。
 性格の差違はあっても、ジイドに対するとほぼ同様なことがジャン・コクトオについてもまた云えるであろう。けれどもコクトオはあまり聡明である。私は彼が好きでない。然しながら、むろん否定することはできないし、しばしば彼に圧倒され、彼とともに苦しみだし、悲鳴をあげて狂奔するのである。血走って動かない眼の悽愴さを真実知っているのはコクトオだろう。それでいながら、コクトオはあまりに聡明である。私は彼の魂は二元ではないかとさえ思うことがある。
 私はこの原稿の下書において、「純粋と素朴のみを飽くまで彼に信じる」と述べている。これは誤解であった。――誤解ではないかも知れない。私には分からないのである。
 その次に「ラデイゲに面白くない小説を書かせて三嘆したコクトオは彼の真面目を物語る」と書いてある。この意味についても疑わしいところを生じた。面倒くさいから、ほんとうのことをチョッピリ白状しよう。私はコクトオをある瞬間忌み嫌うばかりでなく、他のある瞬間激しく憎んでいることさえある。ラデイゲは、はっきり分らないのだが、大して好きでも嫌いでもない。『ドルヂエル伯の舞踏会』で彼が狙っているところはよく分るのである。それだけ。
 私は大変眠い。引続いて睡眠が甚しく不十分なのである。そして私は冴えている。そして私は――いま、私は切られかかっている。それが、恐らくそれだけが分る。
 本文を続けてみよう。私はひとつコクトオについて予言をしてみたい。恐らく彼は発狂しないであろう。自殺して「しまわ」ないであろう。そのうち凡そくだらないことに熱中しだして、一生を満足のうちに終わるであろう。それは適中しないかも知れないけれども、コクトオは元来そういう性質のひとである。――やっと分った。前に分っていたのだが、捉えることができなかったのである。私はさっき大変眠かった。眼が霞んできてさえいた。今はさほどではない。諸君は理解するであろうか、私がいったのを。「切られかかるのが分っている。それだけ」と。
 更に白状しよう。私はコクトオにかなわないのだ。コクトオにはどうしても気合負けがする。私にはコクトオが「分ら」ないのである。(私の魂は急に黙りこくってしまった。また話しだす。私のこの短文を最初に読む坂口安吾よ。このあと数行は消してしまった方がいいと思ったら――私はいままた切られた。私の魂が私の魂に。黙の一字。)
 本文にまたかえろう。
 私が暗示するといった性格の型はすでに暗示してしまってある。私は悪魔を想起しているのである。
 これはスタンダールがまったく書き洩らしたので、あの時代にあっては到底書き得なかったのに違いない。考えてみれば、進化は無限であり驚異すべきだ。私などすくなからず脅される。私はスタンダールはむろんのこと、コクトオやジイドの踏みとどまった地点から出発してゆかなければならないのであろう。あとの二人は現に私の前方を歩いてゆくのだ。恐らく私など一生狙いつづけながら、それで死ななければならないのかも知れない。私はほとんど絶望してしまう。私はどうしても停止していられないので、はしりだすのだが(そしてそれは私にとって無上の満足であり、真っ暗な不安である)、はしりだすことによって私は私であることができるのだが、所詮盲目の奔馬はなにものかに衝突してうち倒れてしまうのではなかろうか。絶望しない私であるゆえ、私はひどく絶望しずにいられない。


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