「日本文化私観」と京都

 

京阪電車伏見稲荷駅

 安吾の有名なエッセイと言えば、『堕落論』とならび称されるものとして、『日本文化私観』を挙げる人も多いことでしょう。そこには、戦前における安吾自身の事について多く語られているのですが、その根幹にあるのは安吾の京都時代とも言うべきもののことでしょう。京都での安吾はさまざまな仏像や建築などにはほとんど興味を示さず、全く別のものに興味を向けていたことが書かれています。『京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ』とまで書かれていることには天邪鬼的な韜晦を感じるものの、安吾がどういうところで何を見て、それを『日本文化私観』でどう書いているのかということを改めて見てみることでわかってくることも多いのだろうかと思います。ちなみに上の写真はそれこそ、安吾がないと困ると言った電車の駅、京阪の「伏見稲荷駅」です。安吾の下宿はこの駅のすぐ向かいにありますので、この駅を起点としてさまざまな場所へ出掛けていたのであろうことがしのばれます。(2005.1.11)


下宿への入り口

 この写真の左側はすぐ上の写真の駅です。単なる家と家を写したものと思われるかも知れませんが、ここの間を入っていくと狭い路地があり、そこが安吾が下宿していた元食堂があるのです。

安吾の下宿(2階)

 こちらの家の二階に安吾は下宿していたといいます。もしかしたら奥の方でしょうか。この構造を見るとどうやら奥の方を人に貸しているような感じになっているので、そうなのかも知れませんが、詳しくはちょっとわかりません。

伏見稲荷の赤鳥居

 伏見稲荷に行くにはJRの稲荷駅の方が近いのですが、それでもちょっと歩けばすぐに境内に着きます。どんどん上へ登っていくと、安吾の書く『俗悪極まる赤い鳥居の一里にわたるトンネル』に行き当たります。ここの部分はあえて俗悪に見えないように撮りましたが、このトンネルを反対から見ると、一つ一つの鳥居を寄進した人や会社の名前が延々と連なっているのですね。出掛けた時はまだ初詣に来ている人が多く、さまざまな人々の願いが通り過ぎていきました。それこそ安吾の言う『人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがある』ということなのかも知れません。こういうのは、一人で歩いている時にはちょっと感じることができないでしょうから、この時期に来たことが結局として良かったということになりましょうか。

車折神社の石

 こちらは嵐山にある車折(くるまざき)神社です。この石に願をかけて納めると願いが叶うということで、露骨な金額の書かれた石の多さに安吾は強い印象を覚えたようです。しがらみから逃れたくて京都にやってきた安吾にすれば、こうした下世話な願いというのは現実というものを思い出さずにはおれないもので、自分との格闘がこの場で行なわれていたのではないかと推測してみたくなるものです。

石1石2石3石4

 そんなわけで私もこの場にあった石を手にとって眺めてみました。旅というのは日常生活から逃れるために行くものであるのに、右上の思いっきり仕事がらみの目標が書かれた石を見ると、さすがに現実に引き戻されて萎えますね。といってもこのように具体的にお金が書かれた石というのはそれほど今はなくて、受験とか健康とか厄除けとか、そんな事を書いている石が思いのほか多かったです。あと、左下の石は実に切ない感じがしました。「女として社会人として人間として戦士として成長」と書いてあるのですが、企業戦士という言葉がこんなところで出てくるとは。今も昔も人々の願いというのは切ないものですね。

嵐山劇場の場所?

 車折神社の北側に、京福電鉄嵐山線車折駅があるのですが、安吾が京都にいた当時、駅の裏の「嵐山劇場」に安吾は通ってレビューなどを見ていたといいます。恐らくこの辺が劇場のあった場所ではないかということで撮ってみました。車の停まっている先にあるのが京福電鉄の線路で、当時はこのまわりはほとんど畑だったとのこと。劇場まで行って興業を見るという事は、やはり現実逃避がその主な目的だったということですね。毎日原稿用紙に向かって日中は書いていた反動で、お客もあまり入らない劇場というのは、緊張を緩めるためには丁度よかったのであろうことは何かわかるような気がします。

亀岡城入口

 夜な夜な嵐山劇場に入り浸る安吾に、友人の隠岐和一氏が連れ出したのが、こちら亀岡城跡です。当時は大本教の本部が大弾圧に遭って破壊され、その様子を見に行こうとしたと書かれています。今はもう、そんな弾圧の跡は微塵もなく、入り口からこのように大変入りにくい雰囲気となっています(^^;)。とはいっても、観光客のための見学は無料で、大本教の受付にその旨を伝えるとパンフレットをくれ、詳しく説明してくれます。ただし、安吾の入ったように鉄条網をくぐりぬけ、禁足地に強引に入るような真似は今ではとてもできないでしょう。お城の石垣が残るところまで行くためには、大本教の神殿を通らないとならないので、そこで待機している神主さんに頼んで、お祓いをしてもらわなければならないのでした。

この上に安吾は登ったかも

 安吾はこの階段の上まで行き、亀岡の市街地を見下したそうですが、ご覧の通り、ここからは聖域につき入ることはできません。上には明智光秀手植えの銀杏があるということですが、それも見られないのは残念なような気も。まあ私有地ですからしょうがありませんが、ここを出口王仁三郎氏が購入しなかったら安吾もここまでやってきませんでしたし、私もここまで訪れることはなかったでしょう。

瓦礫の下から出土

 安吾が乗り込んだ時、あちこちに石像の首がころがっていたとあります。これはそこで安吾が見掛けた石像の中の一つなのでしょうか。それこそ、この石像が大弾圧にあった当時の大本教の様子を今になお伝えている唯一のものではないでしょうか。「王仁三郎の夢の跡」と安吾は書きましたが、大本教は再生し、現在に至っています。これだけの城を個人所有する出口王仁三郎(敬称はあえて略させていただきます)という人のスケールは大きかったのだろうと思いますが、さすがに秀吉と出口王仁三郎とを同じように考えることは無理があったと思いますね。

 


 

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