『肝臓先生』を書いた静岡県伊東市

 

肝臓先生の碑

 ずっと静岡県に住んでいて、大好きな作家である坂口安吾が同じ県でひととき暮らしたことがあるということは大きな興味の対象となっていました。ただ、あまりに近くていつでも行けると思うと、逆になかなか行けなくなってしまいます。下調べなどもその調子で、まあいつかは行くのだからとタカをくくって、実はほとんど調べていなかったりしたのですが。そんな時、たまたまいい時間に伊東市周辺を訪れる機会ができ、これを逃すとまた当分行けそうにないと思い、とにかく伊東駅周辺を歩いてみることにしました。

 まずは国道135号線沿いにある道の駅で情報を収集します。駅周辺の地図をもらいましたが、文学散歩というようなコースはあるものの、そこに『坂口安吾』という名前を見付けることはできません。下調べのない状況でこのまま行くのは危険すぎます。そこで安吾の書いた小説の題名である『肝臓先生』のお宅はどこの辺りですかと聞いたところ、案内役の年配の男性が丁寧に地図に印を付けてくださいました。とりあえずこれで目標ができたということで、とりあえず伊東駅を目指して出発ということになりました。

 まずは駅の写真を撮り、駅前の観光案内所に駆け込みました。駅周辺の散策マップは大きいのがありましたが、ここにも『坂口安吾』の文字はありません。案内所に詰めているのは若い女性の方ばかり三人で、ここで安吾の家について聞いて、ちゃんとした回答が得られるのだろうかと一瞬思いましたが、そのまま諦めてしまうのももったいなかったので、聞いてみることに。しかし私の予想通り、彼女たちは全く安吾の家についての知識がなかったのです。

 ただ、そこはプロの案内人ということで、電話で知っていそうな人に連絡を取ってもらっているうち、観光協会の専務さんという方が直接教えてくれるということになりました。現在も伊東の歴史についての小冊子はあるのですが、安吾の家がどこにあったかというところまでは書いてないのです。その専務さんが持って来てくれた古い資料には書いてありまして、実はその資料を作った方なのだとか。資料を見ながら説明を聞きましたが、刊行が昭和四十一年とのこと。そこには当時の写真も添えられてあって、昭和四十一年当時は旅館になっていましたが、それからも40年近く経過しています。場所はわかるのですが今そこが何になっているかわからないということで、今伊東市史を編纂している先生のところへわざわざ電話をしてくれ、場所の確認まで行なっていただきました。専務さんのおっしゃることには、最初に住んだ家はここで、あとはコロコロ変わっているのでわかりかねるとのことでしたが。ただこれは、以下の調査を見ると微妙に違っています。

石原別荘跡(中央) さて、その家の位置なのですが、自宅に帰ってから確認してみたら奇妙なことに気付くことになります。私の場合、あくまで自分の趣味で訪ね歩くということになるので、先人が調べたものを後追いするようなことになりますが、その最たるものとして若月忠信氏の『坂口安吾の旅』(春秋社刊)があります。そこでの伊東についての記述には「伊東市岡区広野1の601」が住所で、現在は駐車場となっています。また、インターネット上でよく調べていると感心するものに東京紅團(とうきょうくれないだん)のページがあります。ここでは、とりあえず伊東にやってきたときに滞在した『古屋旅館』の場所と、その後に移った秦邸跡(現在は駐車場)、最後に住んだ一戸建て、『川っぶちの黒い小さな家跡』が紹介されています。これは安吾夫人である坂口三千代さんの『クラクラ日記』からその変遷を辿ることができるのですが、クラクラ日記にはもう一ヶ所の家のことが書かれています。それが『秦邸』の後、『川っぶちの黒い小さな家』の前に住んだ『石原別荘の二階』だったのでした。
 観光協会の専務さんがしきりに「白井さんの……」と言っていたのですが、『クラクラ日記』によると、『石原別荘の二階』には戦時中、白井喬二氏が疎開していたということが書いてあるので、今回教えていただいた家がそれに間違いないでしょう。その場所は西小学校の向かいにあります。昭和四十一年当時旅館だった場所は、現在食堂になっていました。『古事記村』というお店がそうです。場所については安直にリンクを張っておくことにします(写真の中央の建物が『石原別荘跡』です)。
 話は観光協会でのことに戻りますが、文学資料をひも解くと最初の旅館は仮の宿として認知されないとして、そこから数えて二番目に住んだこの家を『安吾の住んだ家』とする伊東市の方々の認識というのはしっかりと把握しておく必要があると思います。安吾が伊東にやってきた当初は、近くの音無川に裸になって入り入浴を楽しんだりして、ちょっと変な人ではないかという田舎特有の偏見で安吾のことを見ていた気もします。それがだんだん町の人も安吾のことをわかってきて、「あの先生はどこに住んでいるのか」ということを気にしだしたのがこの家ではなかったのかと。詳しいところはどうかわかりませんけど、今後刊行されるであろう『伊東市史』の編纂を待ちたいところです。

肝臓先生後援会結成書 安吾と伊東ということを考える時、忘れてはいけない人がいます。最初に書きました。小説『肝臓先生』のモデル、佐藤十雨(本名は清一)氏です。氏が創設した天城診療所は現在もちゃんとありまして、その一部が資料館として公開されています(火曜休み。開館は午後一時から)。入館料100円を払って所狭しと並べられた資料の中から安吾に関係するものを探したところ、安吾の署名の入った書きつけを見つけました。資料館の方の話によると、安吾のものというのはおそらくこれだけだと言うことでした。写真のものがそうですが、これは何かといいますと、肝臓先生こと佐藤十雨氏の後援会を結成し、会長が作家の尾崎士郎氏、安吾は別格の顧問というところに名を連ねています。医者としての仕事だけでなく、俳句をたしなみ、さまざまなものを集めまくった肝臓先生にはかなりの強い想いがあったのでしょうね。前出の『クラクラ日記』で坂口三千代さんは、小説『肝臓先生』はフィクションだと書いていますけど、資料館の方の説明によると、最後に死んでしまったことはフィクションだとしても(氏は95歳で亡くなられた)そこに至る内容については中に書いてあるブドウ糖注射を行った明細に至るまで(患者の氏名まで一人を除いて実際の方のお名前をそのまま使っているのにはびっくりしました)ほぼ肝臓先生本人が語ったそのままを安吾は小説にしています。小説の中で肝臓先生が健康保険の請求を受け付けてもらえないくだりがありますが、その後肝臓先生は腹立ちのあまり医師会を脱退し、今にいたるまで天城診療所では健康保険が利かないのだそうです。今はむしろ肝臓の病気というのは大きく認知されていますが、今にいたって保険治療を認めない保健所の方はどういう見解なのでしょうか。

天城診療所 『肝臓先生』は今村昌平監督によって映画化されましたが(題名は『カンゾー先生』)、この件についても面白い話を聞きました。安吾の小説とは言え、上記の通りそのほとんどが肝臓先生自らが語った話を安吾がなぞっているものなのですから、映画化の際には筋を通して天城診療所側に話があるのかと思ったら、一切そんな話は今村サイドからなかったそう。伊東市と映画『肝臓先生』については、ロケ地の問題で誘致したい伊東市側と、監督の生まれ故郷でという制作側の意見が食い違い、結局伊東市ではロケは行なわれなかったのですが、こうしたことも背景にあるのかどうか。でも今村監督自身ある種トンデモナイ人ですから、あまり目くじらを立ててどうこうということでもないような気もしますけど。

 診療所の入り口に伊東市唯一の坂口安吾碑があります(いちばん上の大きな写真がそれ)。小説『肝臓先生』の最後に記された壮大な詩が全文刻まれているのです。しかしこの場所も観光ガイドマップには記載されていないのですね。安吾に興味がある方が伊東を回られる際は、東京紅團のサイトにある地図が参考になるでしょう。できるならばタオル持参で、町のあちこちにある銭湯で汗を流しつつ、ゆっくり散策されることをお勧めします。(2004.2.22)

 

 


 

安吾の歩いた道を行く へ

坂口安吾を読みまくる!!へ

ホームへ

ご意見、ご感想をお寄せください

mail@y-terada.com