坂口安吾全集第六巻

(1947.8〜1948.8)

  1. 不連続殺人事件

    1947(昭和22年)年8月1日〜1948年8月1日発行の『日本小説』に発表。

     今はミステリー全盛ですが、その昔は探偵小説というジャンルで『新青年』という雑誌から江戸川乱歩、横溝正史など蒼々たる顔ぶれが書いていました。その中に安吾が殴り込みをかけたようなこの作品は、探偵作家クラブ賞を受賞するなど、絶大なる評価を得たのです。
     しかし、何と言ってもこの作品をこの作品たらしめているものは、途中で入る作者からの挑戦状です。この部分は雑誌掲載時に記されたものですが、私が最初に読んだ角川文庫では略されていたのですね。これはまさしく一生の不覚と言うべきもので(^^;)、トリックを知ってしまった今となってはもはや悔やんでも悔やみ切れません。とりあえずまだ読んでいない方は、文庫だったらちくま文庫の全集か、創元社推理文庫の『坂口安吾集』で読まれることをおすすめしておきます。推理小説なので、中についてのコメントがなかなか書けないのが歯がゆいのですが、こういう書き手の側からのトリックがあったのかとひどく感心したものです。では、読んでない方はこれから読んでびっくりしてくださいね。(99.11.23)


  2. 現代の詐術

    1947(昭和22年)年12月15日発行の『個性』に発表。

     ここのところ、全く本人の怠慢の至りで、半年以上も間が空いてしまったわけですが、もし続けざまに読んでいたら、また違った感想だったのではないかと思います。安吾はこの戦争で、人間は、古来あった『座』のような徒党を組んで一方的に自分たちの利益を主張し、そうでないものをはじき出すという、まさに時代に逆行する人間の姿を見たわけですが、果たしてその後、物質的に豊かになったからといってそうした人間の中身が変わったのかどうか。そうした『座』の社会に組み込まれている人にとっては、そうした意識もなかったのかもしれません。
     しかし、この半年の間にいろんな事が起こって、さまざまな方が亡くなって、一つの時代が終わったという感じがあります。代議士による利益誘導なんて言うのは安吾の言う『座』そのものの感じがしますが、結局戦後50年以上も日本という国に生きる人は、自分の罪を自覚することはできませんでした。安吾の言うように、中世に回帰するならば、古代にまで戻ったほうがいいというのは私も賛成です。ただ、人間というものは弱いのでどうしても徒党を組んでしまうということも、また疑いようのない事実なわけで。
     ただ、気をつけなければならないことは、徒党の中にまぎれ込んでいると、いつ自分が切られるか意識することが少ないため、裏切られて党から捨てられた時は悲惨な運命が待っているということでしょうか。まあ、完全に徒党から足を洗わないまでも、何かあった時の心の準備だけはしておいたほうがいいと思いますね。(2000.6.22)


  3. 淪落の青春

    1948(昭和23年)年1月1日発行の『ろまねすく』に発表。

     このページを開いた時には決意もものすごく、すぐにでも全巻読破をと意気込んでいたものの、その後の体たらくといえば見ていただければおわかりのことでしょう(^^;)。しかし、そうしたいい加減さというのは何も私ばかりではありませんで、安吾も結構いい加減だったというのがこの作品を読むとわかります。この『ろまねすく』というのは同人雑誌のようですが、この部分が連載第一回として華々しく発表された割にはそのあと続編は書かれることはありませんでした。読んでいる側からしても、さあこれから面白くなった、この後どうなってしまうのだろうと思った矢先に『未完』の文字が出て来たときには本当がっかりしてしまいましたからね。

     さて、そうは言いながらもこの小説の中では興味深いところがありました。戦争から帰ってきた人たちのひしめく田舎がこの小説の舞台なのですが、当時は特に生まれてから死ぬまで、何かないと自分の生まれたところから出て行くということはまれだったことでしょう。しかし、戦争という非日常の体験がハッキリ言うと今の私たちの世代よりももっと過激な青春を送らせたという側面もあるわけです。タイトルの『淪落の青春』という言葉に騙されてはいけません。山の中の片田舎で子供時代を送った少年少女が、あるものは戦地へ赴き、あるものは軍需工場へと送られていきました。今ではそうした青春は暗さ一辺倒に語られていますが、人間誰しも大真面目に生きているわけではありません。主人公の貞吉のように、兵隊として行った東南アジアで、現地の娘と懇ろになった人もいたでしょうし、戦火が激しいながら都会へ出て、そこでの生活を楽しんでいた女性もいたかもしれません。そこにあるものは非日常的な生活で、そういう生活を体験してきた方々は今の世代と比べて失っているものは非常に大きいということは確かですが、逆に今の世代ではどうしても体験できないことを体験してきているということでもあるわけです。

     だからといってああいう時代を肯定する気はさらさらありません。ただ、どんな時代でも前向きに物事を考えていれば、何か見えて来るのではないかと。現在の刃物を振りかざして暴れ回っている輩は、自分がこうなったのは社会が悪いからだと思っている部分が多少はあるのではないでしょうか。社会というのはいつの世もこんなものですから、打開したいと思ったら自分で何かやるしかないんですよねえ。ですから私も、今後このページが滞ることのないように、表紙に進行状況を示す部分をつけました。もしまたページ更新が滞ることがあるようでしたら、遠慮なくおしかりのメールを下さいね(^^;)。(2000.7.3)


  4. 出家物語

    1948(昭和23年)年1月1日発行の『オール読物』に発表。

     何とも大ゲサな題名ですが、出家云々というのは最後のほうにちょっと出て来るだけなのです。戦後の焼け跡でヤミ屋をやっている男と、表面上はいいように取り繕っている妙齢の女性との関係を軸に物語が展開していくという、安吾にとってはとってもありきたりな展開と言えなくもありません。

     この女性結局はさまざまな男遍歴を重ねたあげく、坊さんの妻になってしまうのですが、それを評して『出家』とする安吾。確かに人生どこにどう転ぶか分からないとはいっても、相手の男によってこれほどの変貌を見せる女性を描く事によって、職業なんて大したものではないという気持ちもして来るのだから不思議なものです。坊さんだからヤミ屋より偉いわけでもなし、所詮死ぬ時は一緒。地位も名誉もあの世までは持っていけないのですから、死んでも偉く見せようなんてことはやるもんじゃないですよね。(2000.7.6)


  5. 現代とは?

    1948(昭和23年)年1月1日発行の『新小説』に発表。

     安吾が問いかけている現代と、今私たちの生きている現代との差はどこにあるのでしょう。インターネットで一瞬にさまざまな情報が入ってきたりして、もしかしたら私もそうかもしれませんが『にわか評論家』の床屋政談がいろんなところに広まってしまうというのが現代らしいと言う事なのでしょうか(^^;)。

     インターネットを検索していると、さまざまな文章に出会います。本を読んだり、お芝居や映画を見たり、音楽を聴いたり。多くの人が自分で体験した事を書いていますね。ところが、テレビなどでよく出てくる評論家という人たちの中には、実際に読んだり、見たり、聴いたりしなくても、あんなものはだめだと世間の風評を真に受けて、又は他人の評論を孫引きしてあたかも自分の意見のようにおっしゃる方がいるらしいと。これは何も安吾の時代の現代の話ではないのですよ(^^;)。

     私のページで紹介している竹中労さんは『評論家』と呼ばれる事を嫌い、『よろず評判家』と称した方ですが、生前にそうした評論家に注文をつけた台詞が『頼むから自分で見て評論して欲しい』でした(^^;)。そういう意味では、インターネット時代の到来を私は歓迎します。今から自分が読んだり見たり聴いたりする前に、専門家の先生の意見を聞かなくとも、実際に体験した方々はネットの中にごまんといます。映画は試写会、音楽は見本盤、本は著者からの献呈本。そんなもので自分の思った通りのことが表現できるわけないですしね。偉そうな評論家よりも実際にお金を払って体験した普通の人たちの評判のほうがどれだけ役に立つか知れません。テレビに出てくる評論家のおじさんたちは何やら呪文のように『IT革命』を唱えていますが、それが逆に自分たちの首を絞める事になるかもしれないってこと、分かっているのかな。(2000.7.12)


  6. 新人へ

    1948(昭和23年)年1月1日発行の『文芸首都』に発表。

     全くもって偶然とは恐ろしいものです。今日発表があった第123回の芥川賞は町田康氏に決まったそう。彼は別に文学を目的にしてきたのではなくて、私の目からすると文学者というよりもミュージシャンとしてのほうが知名度があるし、才能もあるような気もします。確か役者もやっていて、彼の演ずる南方熊楠を見たいなと思っているのですが、あの映画どうなってしまったんでしょう。

     安吾は芥川賞の審査員をつとめたことがありますが、こうした本職の片手間に(まあ、現状ではそうとはいえない部分ももちろんありますが)文学をモノにし、軽やかに既存の作家の上を飛び越えていく新人の存在をどう評価したでしょう。少なくとも安吾が審査員をしていたら、もっと早く芥川賞を取ったのではと私は思うのですが。(2000.7.15)


  7. 阿部定という女

    1948(昭和23年)年1月1日発行の『Gメン』に発表。

     阿部定とは女性の名前。彼女が起こした事件だから阿部定事件というのです。愛した男の首を絞めて殺してしまい、その体から一物を切り取ったということで猟奇的事件として当時はものすごく騒がれたといいます。それを映画化したのが大島渚監督の『愛のコリーダ』で、先日の新聞記事によると公開当時は猥褻だからとフィルムをずたずたに切り裂かれ、ぼかしも入りまくりで、大島監督はこれは自分の作品じゃないと怒り狂ったといいますが、今度再公開なったものでは局部のぼかしは仕方がないにしても、作品自体のカットということにはならないとの事です。まあ、それはそれとして俗に言う猟奇的事件の典型と目されたこの事件。しかし、定さんの相手の男性が性的に痛めつけられることによって快感を得るタイプの人間だったらしく、男に命じられるままにその身体を痛めつけ、たとえそれが相手を死に至らしめてしまったとしても、そこにあるのは女性としての愛情が有るだけなのです。結果を見て猟奇的と判断することは簡単ですが、別にこれが阿部定さんという女性だから起こった犯罪だったのではなく、愛情の深い普通の女性なら、少なくとも相手を絞めあげるところまではやってしまったのではないかというのが安吾の主張です。私としても同じような感想を持っています。

     17歳の暴走というのが最近のキーワードで、犯行を犯した少年たちのことを理解できないと語る人たちが多いですが、人を殺したりするところまで行かなくとも、カルト教団に入信してしまうのもそうだし、台風がきているのにわざわざ海へ泳ぎに行ったりサーフィンをしにいったりするのも若さの狂走であり、こうした状態に陥ることこそ普通で、逆に何事もない青春をすごしてしまうほうが不自然だということを考えると、事件を起こした少年たちとそうでない少年との間には程度の差しかないわけで、やみくもに恐れるものではなく、自分たちとは関係ないものとしても考えず、少年の心情に思いをはせることが必要なのではないかと思います。その種の議論がなく、無理解な意識が蔓延するから、逆にこうした事件が頻発するのでしょうけど。そう言う意味では安吾がこれを書いた昭和20年代からまったく進歩が見られないということでもあるわけなのですが。(2000.7.22)


  8. 感想家の生まれでるために

    1948(昭和23年)年1月1日発行の『文学界』に発表。

     のっけから耳が痛い痛い(^^;)。安吾はここでこんなことを書いています。

    『感想がなければ語らぬがよい。ありもしない感想をあるが如く語ろうとするから……』

     まさにこの一連の文章はそうしたものの典型であるかもしれませんね。でも、それでお金をもらう批評ではないから許してもらえるでしょうか。とにかく、一連の安吾の作品にはすべて感想を付けようと始めてしまったので、やっぱりちゃんとやりぬかないとね。ただ、やっぱり書くことがないなと思うときもあるので、その時は時間を書けてゆっくり自分の感想が出てくるのを待つことにして。あれ、これではまたへこんだときになかなか更新しない言い訳になってしまう(^^;)。どちらにしても自分のできる範囲で書き続ける事が大切だと思っていますので、ぼちぼちやっていく予定です。(2000.7.22)


  9. 天皇陛下にさゝぐる言葉

    1948(昭和23年)年1月5日発行の『風報』に発表。

     今日たまたま全国チェーンであるとあるコンビニエンスストアに行ったら店の入り口に張り紙がしてありました。どうせ不良製品を出した某食品メーカーのお詫びの張り紙だろうと思ったらそうではありませんでした。その日に行われた(2000年7月25日)香淳皇后(昭和天皇の妃)の本葬に当たる斂葬(れんそう)の儀についてのものだったのです。

     亡くなったのが6月16日ですから、何と本葬まで一月以上かかっています。それはなぜかと冷静に考えたら、まさにその前の日に九州・沖縄サミットが終わったからなのではないかという事に気がつきました。もちろん、私の認識不足で全然違う理由があったのかもしれませんが、一般の人のお葬式の事を考えると、この開き過ぎとも思える日程には疑問を持たれる方も多いはずです。

     天皇についての言論というのは今も昔と変わらずタブーという感じが強いのですが、安吾は当時どうしてこれだけのものが書けたのでしょうか。年譜を見ると、この文章について猛烈な抗議を受けたとかいう記述はないし、むしろ伊東の競輪の八百長問題に絡んだときの方が神経衰弱っぽくなってますし、ほんとにこの頃には安吾の周辺に何も起こらなかったのかという疑問はつきまといます。それくらい突っ込んだ天皇についての意見ですからね。

     安吾の考えによると、天皇だけに許された一人称『朕』というのは滑稽極まりないということですから、今回の『斂葬(れんそう)の儀』という呼び方についても一言あるかもしれません。それにつけても、問題なのは天皇周辺にいる人たちだと思いますね。話を最初に戻しますが、どうして沖縄サミットが閉幕した直後にこうした行事を持ってきたのか。政治の世界にどっぷり飲み込まれ、翻弄されるというのは特に天皇に思いを寄せる人たちにとっては耐えがたき事なのかもしれませんし。

     結局、今の社会もこと天皇に関することについては何ら安吾がこの文章を書いた時と変わっていないのです。言ってみれば先送りという事ですね。ですから逆に、安吾のこの文章がいつまでも輝きを失わないという事も言えるのですが。(2000.7.25)


  10. モンアサクサ

    1948(昭和23年)年1月25日発行の『ナイト』に発表。

     浅草の名物といえば雷門。しかし最近では二階建てバスだったり、サンバカーニバルだったりします(^^;)。演芸自体がテレビの出現とともに下火になって、落語はおろか長唄・新内・浪曲・講談といった娯楽がことごとくだめになってしまった。レビューといっても今は受けないでしょうね。

     安吾がこれを書いた時にもそうした浅草の凋落傾向は出ていたようですが、インターネットを含めてこれだけ娯楽が多角化してしまうと、なかなか昔のように大勢の人が浅草に遊びにやってくるということは難しいかもしれません。でも、その当時も今も、浅草が相当安くのめる町であることは確かで、以前東武鉄道の駅の向かい当たりの居酒屋さんが客引きをしていたところに交渉して入って、ボッたくられもせず安く飲めたのが昨年か一昨年の話です。

     さて、このまま浅草の話を書いて終わってしまうのは本意ではないので(^^;)、安吾の文章についても書きます。安吾が二回も書いていたのは浅草の女優さんの豹変ぶりでした。プライベートでお酒の相手をする時は安吾がたじたじになってしまうほど色気があるのに、いざ舞台に上がったらテンで魅力がなくなってしまうというんですね。それは、彼女たちが女であるということに安住しすぎて、舞台で女の魅力を出すための心構えをしていないとのこと。こうした観察眼はむしろ男性より女性のほうが鋭いと感じるのではないでしょうか。別に今の若い子に恨みはないけど、若さの色気で勝負できるうちはいいけど、そのあとはどうするのよと思ってしまうのは私だけが思っていることではないでしょう。逆に、男である私にとって、宝塚の女性が演ずる男性のほうが女性にとって理想化された男性であるわけで、まったく男を演ずる努力をしていない自分を棚に上げてしまっているのですが(^^;)。(2000.7.27)


  11. 私の探偵小説 [1948.1.25]

    1948(昭和23年)年1月25日発行の『宝石』に発表。

     これはいわゆる弁明ですね。この巻の最初にある『不連続殺人事件』を最初に書くことを約束していたのが雑誌『宝石』で、それがなぜか『日本小説』という新興雑誌に載り、犯人当ての懸賞などもあって大盛り上がりになってしまっては、最初に約束していた『宝石』側はちょっと納まらない。で、次回作を書くと弁明しているのですが(^^;)、結局安吾がこの文章で書いている通り気分が乗って緻密な計算ができるだけの状態ではないとなかなか傑作は生まれないのです。さまざまな探偵小説を安吾は書いたわけですが、途中『明治開花・安吾捕物帳』の方に走ってしまってこの後連載中断のまま未刊となってしまった『復員殺人事件』のような作品も出てきてしまったのですが、これはこれでいたしかたなかったのではないかと。出版社の催促によってすばらしい作品をものにする人もあれば、安吾のようにそうではない人もいます。『青鬼の褌を洗う女』なんていうのも、一気に書かれたものだそうですからね。しかし、この文章は本当に『宝石』の編集部に対する申し訳ないという気持ちでいっぱいのもので、そういう安吾がちょっとかわいくもあります。(2000.7.30)


  12. 後記 [『風博士』]

    1948(昭和23年)年1月25日発行の単行本『風博士』(山河書院)に発表。

     作家にとって処女作というのはどういう気分のものなのでしょうか。特にこの時期には流行作家として脂が乗りきっていた時期ですから、その当時の作風とはまるで違う処女作『風博士』を読み返すのは、ちょっと面はゆいというか恥ずかしいような感情があったのかもしれません。でもこの文章を読む限りでは、風博士など、初期の短編の中で展開するナンセンスなおかしさの世界についての想いが語られていて、収録された作品を見てもなかなか面白いラインアップになっています。(「桜の森の満開の下」「閑山」「勉強記」「風博士」「土の中からの話」「わが戦争に対処せる工夫の数々」「木枯の酒倉から」「盗まれた手紙の話」)

     書いたものは仕方がないにしても、これだけ悟ったような書き方をしているのを読んでしまうと、そうか、そういえばこの人は自分の一番恥ずかしい部分すら小説として発表している人なのだなあと改めて感じた次第。そこまでしないと小説家になれないとはいいませんが、内面をさらけ出さないと人を面白がらせるものはなかなか作れないのでしょうかね(^^;)。(2000.8.11)


  13. 机と布団と女

    1948(昭和23年)年2月1日発行の『マダム』に発表。

     坂口安吾とはどんな人であるか、こう聞かれた時にいくらていねいに口で説明するよりも雄弁にその人を語る写真があります。これはもう有名な写真家・林忠彦さんが写した書斎で執筆している安吾に止めを刺します。エッセイではその写真を見た一読者の感想を、安吾は感嘆しながら引用しているのですが、それほどあの写真は雄弁に安吾自身を語っているということでありましょう。本人が恥ずかしいといってもそれを撮ってしまうのがプロの写真家というもの。私は残念ながら林忠彦さんは、晩年に東海道を撮っていたころしか存じあげませんが、それでもその写真に書ける情熱には常人の及ぶ所ではなく、すごい人だったなあと改めて思います。手元に朝日文庫『文士の時代』がありますが、数ある文士の写真のなかでも、その安吾の写真は別格だと思うのですが、これは私の独りよがりでしょうか。(2000.8.11)


  14. 探偵小説とは

    1948(昭和23年)年2月20日発行の『明暗』に発表。

     安吾という人は、雑誌『新青年』に載るような作家の作品が嫌いだったようですね(^^;)。具体的に言えば小栗虫太郎という人の作品について上げているわけですけども、確かに『黒死館殺人事件』という題名を見るとどうしても犯人当ての探偵小説と思ってしまうわけなのですが。こうした作品があって現在のミステリーブームというのがあるわけなのですが、個人的にはあくまで自分の好き嫌いの範囲内で納めておくのがいいのではないかなと思うのですが。

     ただ、江戸川乱歩先生の書くものについては、やはり初期の『二銭銅貨』とか『人間椅子』とかの短編のほうが私は好きですが。職業作家として多作を強いられる作品の質は確かに荒くなるような感じがします。しかしそれは作家本人の責任ではなく、本を売りたい出版社のほうにも問題があるのですけどね。

     この文章で安吾は探偵小説を作るのに合作を奨励しているわけですが、そういえば小説家の岡嶋二人氏はそれこそ二人のペンネームなのでした。岡嶋氏らはこの安吾の文章を読んだのでしょうか。

     さてさて、安吾が怪奇小説にいらだっていた当時と比べても、今は毎週テレビドラマでミステリーが放送されない日はなく(再放送も含む)、この状況を安吾が知ったら、思わずテレビをつかんで外に放り投げてしまうかもしれませんね(^^)。(2000.9.4)


  15. 世は道化芝居(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年2月23日発行の『世界日報』に発表。

     これはごく短いコラムなのですが、今日あたりの新聞に載っていても全然違和感のない論調になっています。冷静に考えてみれば滑稽千万なものに意味を持たし、17歳の少年たちはだなんて持ち上げる輩がいるものですから、勘違いした少年たちが現れるというのはある種の真理をついています。サカキバラセイト(漢字は忘れた)を英雄だと思ったなんて報道が、一連の事件を起こした少年の口から出たなんて報道もありましたが、件のサカキバラを英雄にしてしまったのは他ならぬ大人たちだったのでありました。

     裸の王様の話じゃありませんが、誰かがはっきりと言ってあげなければ、ある種の少年たちが大人たちの誘導に乗って勝手に作り出したイメージの中の英雄を消し去ることは難しいでしょう。あえて言わせてもらえるならば、冷静に考えてみなさいということです。少年たちは大人が待ち望む道化芝居の主役になっているにすぎません。そして、時が過ぎれば大人たちは新たな道化を見つけ出し、ワイドショーで報道されるその一挙手一投足を肴にして、呑みながらくだを巻くのです。そんな人たちのために捧げられた人生というのはほんとに滑稽ですよ。(2000.9.4)


  16. 帝銀事件余談(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年3月1日発行の『世界日報』に発表。

     帝銀事件の犯人として捕まった平沢貞通氏は、亡くなる間際まで自分の無罪を主張し続けました。多くの行員を毒殺したという、極悪非道な犯罪に警察のメンツをかけても犯人を検挙したいという気持ちはわかりますが、果たして本当に平沢さんが真犯人だったのか。安吾はこのコラムで民主警察の確立、岡ッ引き根性の絶滅を強く訴えておられるのですが、こうした声に耳を貸そうともせず、その主義を変えなかったからこそ今になって警察不祥事が吹き出してきているのですよね。

     安吾の文章を読んで思うのは、どうしてこうした主張を受け入れて、変革に乗り出そうと組織がしなかったかということです。だから私たちは未だに安吾の声に耳を傾けなければならないという。(2000.9.4)


  17. ストその他(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年3月8日発行の『世界日報』に発表。

     この『スト』とはストライキのことです。労働争議というと今はどうなっているのだろうと思うのですが、結局一流企業に入っている労働者たちのために賃上げ闘争をやっているだけで、大部分の中小企業の労働者やパートタイム労働者の待遇については使い捨てと言う状況になってしまっています。安吾はもう少し冷静に状況判断をせよと書いているのですが、労働組合の幹部にそうした情況判断ができないのだからしかたありませんね。で、結局は会社の言いなりになって形ばかりの団交をして、ちょっとばかり給料が上がっただとか、労働時間を短縮しただとか、形に残る結果ばかりを求める。その結果急にリストラされた管理職はどこの労働組合も面倒を見てくれないという事になっているのです。最近はそうした情況に会社組織とは離れた労働組合を作ると言う動きかありますが、先述の中小企業、パートタイマー、外国人労働者などへの連帯と言う事になると、そんな事は全然やってないのでしょうね。そもそも、労働組合を選挙の際の集票マシーンのように使った事に間違いがあったのではないでしょうかねえ。(2000.9.12)


  18. 子供の智慧(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年3月15日発行の『世界日報』に発表。

     少年犯罪が近頃とみに多い。そいつはいけませんなあ。では、凶悪な犯罪を犯した少年への刑罰を増やしましょうか。それはいい考えですなあ……。まあ、そういう論調で少年たちへの風当たりは強いわけなのですが、安吾がこれを書いた昭和23年当時のほうが少年たちは今よりもはるかに少年たちは凶悪であったのです。黙って人の金は盗むはやばい物品の横流しをするわ、ものすごい状況でありました。まあ、戦争の影響で肉親を亡くし、あくまで自分で生きていかなくてはならない状況に人が置かれたら、大人の道徳なんて飛んで行ってしまいますね。

     先日の少年院を脱走した少年の話、確かにとんでもない野郎なんですが、他の少年には面会があるのにその少年だけには誰も会いに来ない。暴れれば暴れるほど、大人たちは少年から離れて行ったという事情もあったという事です。社会から隔離されて、単に非難する大人社会の仕組み自体についても少年法と同程度にどうして考えられないのか。まあ、大人のほうがしたたかで、ずるがしこく、臆病だから決まりを作って締めつけるのですが、それでほんとうにいいのかな。(2000.9.12)


  19. 大衆は正直(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年3月22日発行の『世界日報』に発表。

     衆愚政治とかテレビで仰る人たちがいます。衆愚とはつまり愚かな大衆ということ。テレビで喋っている我々が考えているのだから、愚かな大衆は黙っていろとはあまりに理不尽ではないですか。大衆の興味がすべてではないにしても、完全に無視するわけには行かないでしょう。安吾はここでプロ野球人気、将棋人気、それに反して当時日本人だけで本因坊戦を争っていた囲碁の世界を大衆の人気が離れたという点からも批判しています。最近では大相撲など大衆からそっぽを向かれていますが、大衆の選択はやはり正しいでしょう。その昔、相撲を桟敷席で見たいと希望し、お金を出してもそのチケットは相撲関係者の手に握られて一般の人はそうした関係者に頼まない限り手に入れる事はできませんでした。最近になってコンビニでもチケットを扱うようになりましたが、またそぞろ人気が出て、そのチケットがプラチナチケットになったらどうするのでしょう。まあ、先日のニュースで新弟子検査に望んだのがたった一名だった(^^;)とのことですから、凋落の傾向は目を覆うばかりなのですが。どんなに偉そうな事を言っても、結局は大衆にそっぽを向かれたらそれっきりです。大衆の意志というのは結局のところ、安吾が指摘したように正直なのですからそこら辺を見誤る人は痛い目にあってくれないとやりきれないですね。(2000.9.12)


  20. チークダンス(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年3月29日発行の『世界日報』に発表。

     今じゃチークダンスをしていたとしても、全然問題にならないでしょうが(^^;)、今の常識で言うと人前でキスしたり何したりする人たちへの非難と考えれば分かりやすいでしょうね。今も昔も部屋の中と外との区別がないというのが非常に面白かったですね。でも、外でそういう事をしていてもそれだけで逮捕という事にはならないでしょう。でも、もしかしたら軽犯罪法違反という事になるのでしょうか(^^;)。

     安吾はうちでも外でもやる事は同じなのだから、うちでやっていることを変えていけば外でやっている事にも変化が起こるだろうと言っているのですが、これは確かにそうでしょうね。ここで安吾が例を出している葛飾北斎の春画などはイヤラシイというよりも違った感想を持つ方が多いでしょうし。こういう事を書くと、どこからが猥褻でどこからが芸術かということになるのでしょうが、ただ取り締まるより内なる変革が必要だというのは今にも当てはまるでしょう。このインターネットのエロサイトがそもそもそうですよ。結局欲望のとりこになった男から騙して金をかすめ取る手段としてしか機能していない部分もあるわけですからね。皆さんくれぐれもいつのまにかダイヤルアップ接続が改ざんされ、国外とかダイヤルQ2に変更されたのにも気づかず、嫌らしい画像を涎を垂らしながら見るのはやめましょうね(^^;)。そういうのに引っかからず、断ち切る事によって芸術に昇華するものもあるのですから。(2000.9.12)


  21. 講談の世界(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年4月5日発行の『世界日報』に発表。

     この時期に『凶悪犯罪増加』と書かれても、今の感覚とは当然ずれがあるのですが、これを書いている2000年と比べるとずっと凶悪犯罪は多かったのですね。よく言う少年犯罪においても、戦災孤児が生きるために犯罪を繰り返していたというケースもあるわけで、単純な犯罪数という点では今よりも多かったということは言えると思います。そんな中安吾が主張するのが、講談で語られる渡世人や時代劇の世界で起こる、現代の私たちの目から見ると罪でしかないものを寛容な心で許しているという状況が、いまだに(というか現代でも)受け継がれているということです。たとえばまさにこれを書いている12月14日は赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日ですが、最終的には主君の仇を討った浪士は切腹ということになったものの世間の同情を誘いました。今あんなことをやればどんなに理があろうとも、結局は凶悪犯のレッテルを張られてしまったでしょう。ただ、まだこの日本においても他の国においてもそうした特異な犯罪でも寛容に許す心が存在します。テレビの水戸黄門が、いくら悪いやつらを退治するためでも、悪代官の手先というだけで虐殺のようなことをやってもいいのか。ドラマを作る方も見る方も、そうした問題については考えずにストーリーを追っていきます。それが講談の世界のルールで、それからはずれれば野暮ということになるのですが、講談の世界から離れ、現実の世界に戻ったらそれがすぐに非常識になってしまう。まことに人間の心情というものは不思議です。

     このページの更新をさぼっている間に、日本赤軍の重信房子が逮捕されましたが、彼らが海外で起こした事件というのは考えてみれば講談の世界にどっぷりはまった事件という感じがしなくもありません。テルアビブ空港の乱射事件は許されることではありませんが、どうしてその犯人の岡本公三がどうして日本に強制送還されず、アラブの世界から賞賛を受けるのか。それはアラブにも講談の世界があり、岡本を渡世人が義に感じて殺傷沙汰をしでかしてしまったという風に考えればしっくりきます。つまりは今でもアラブの大衆に支持されているということですね。

     今大衆に支持されていると書きましたが、その範囲が狭い場合でも、ある犯罪に講談の世界を見てしまった人がいた場合、殺人は殺人ではなくなります。本当に青少年に悪い影響を与える物語というのは実はそうしたもので、中学生が殺し合う場面があるから(映画『バトルロワイヤル』のことね)ではないという気がするのですが。(2000.12.14)


  22. 男女同権(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年4月12日発行の『世界日報』に発表。

     
    これが書かれたのが50年以上前なのですか。これだけセクハラという言葉が市民権を得てしまった時代に安吾の男性的センチメンタリズムに裏打ちされた意見というのはたちまちにおいて女性運動家の猛抗議を受け、呆気なく白旗を揚げざるを得ないような感じがしますね。

     ただ、この時期には女性のプロ野球チームができたりして、ある意味では今よりも過激な男女平等論が戦わされていたこともあるのかもしれません。女性であるからといって差別されるべきではないと私も思いますが、考えが硬直化してしまって一切の批判を受け付けないというのは何もフェミニストの専売特許ではなく、公共事業をかたくなに遂行しようとする人たちとかにも見受けられることです。

     結局安吾は男女同権にかこつけて、硬直化した人間の陥りやすい罠というのを本能的に指摘したという感じの残る文章です。(2002.2.27)


  23. 馬鹿殿様観念論(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年4月19日発行の『世界日報』に発表。

     
    いやはや、差別問題についての意識はこの50年で変わっても、現実を見ないで自分の本能の赴くままに恋愛から殺人へ、社会の不満から殺人へ進んでしまうのは今も変わらないみたいですねえ。

     逆に言うと、「これは今まで類を見なかった凶悪な事件です」なんて新聞やテレビ報道を見るにつけ幻滅してしまうと言うことにもなります。実際に犯罪を犯すものの心理というのは過去から比べると変わってないんだし、ただ単に恋愛が携帯やパソコンを通じたものに変化しただけなのに。

     安吾の言うことはすなわち、今の私たちに向けられた問題でもあります。観念のみを弄んでテレビで解説を加えるの暇があったら、現実に即した調査・研究をやってほしいものですね。(2002.2.27)


  24. スリと浮浪児(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年5月10日発行の『世界日報』に発表。

     新宿歌舞伎町に、24時間稼働の監視カメラが設置されたというニュースが入ってきました。しかし、この時期の上野とか神田駅周辺の方がはるかにタチが悪かったみたい(^^;)。

     戦災孤児が自分で生きていくためにはストリートチルドレンになって犯罪に手を染めるしかないわけで、この問題を解決するに、昔の日本は何をしてきたんでしょう。

     今急増している路上生活者の問題についても、個々への援助は物事の根本的な解決にならないことは同じで、本当は国家予算を十分に割いて対策を練ることが必要なんですけどね。ここは安吾が言うように、墜ちるところまで墜ちきる必要があるのでしょうか。昔はともかく、今の私たちがそういう情況に耐えられるかというのが課題ではあるのですが。(2002.2.28)


  25. 家族共犯の流行(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年5月24日発行の『世界日報』に発表。

     道義の退廃ということは、何も現代のことじゃなく、やっぱり昭和20年代の日本というのは大変な時代だったのです。家族総出で犯罪に手を染めるなんてことが現代に起こったら格好のワイドショーネタになるでしょうが、一昔前の日本では実に当たり前なことだったということ。つまり、時代は変わってもまた同じような情況が起こることはあり得るんですね。

     日本の政治というのは根本的に対策をとることが実に苦手らしく、その場その場での政策しかとらないから、病理はさらに深刻となる。それと同時に時流に乗って自らのことを省みることのない人たちも意外と多かったりする。現実を直視し、根本的な病理の元を退治する。今のデフレを回避するためには、失業者をなくし、賃金を増やさなくてはだめでしょ。失業率が今のままで、いつリストラされるかもしれない不安の中では、新品は売れず中古や倒産品のバッタもんとか(^^;)、そんな普通の経済活動の産物ではないものしか売れないんですよ。まあ賃金のアップは無理でも、雇用をなんとかして失業の不安を解消しないとねえ。今の日本には朝鮮戦争のような特需はあり得るはずないし、安吾の苦言はますます私たちに響いてくるのでした。(2002.3.4)


  26. 青年は信頼すべし(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年5月31日発行の『世界日報』に発表。

     娯楽という言葉、今の時代ではあんまり使わないんですが、使わないから娯楽がないと言うことではなくて、むしろその反対なのではないでしょうか。家庭でも学校でも、わざわざ娯楽という言葉を使わなくても人たちは十分娯楽を楽しんでいるのは確かでしょうし。

     ただ、すべての生活が娯楽というのもどうかと思いますけど(^^;)。大学のレジャーランド化という言葉がありますけど、最近では学生を集めるために入学した生徒一人一人にパソコンを無料支給とか、至れり尽くせりのことをしないと受験生が集まらないところもあるというから時代も変わったものです。ただ、それでもなお『今時の若い者は』という言葉で思考停止してしまうことだけは良くないと思いますね。青年期に遊びまくっていても、その反動でいろいろ考えるようなことも自身体験してますし(^^;)。(2002.3.4)


  27. 応援団とダラク書生(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年6月7日発行の『世界日報』に発表。

     右派と左派という括りがあって、インターネットでそうした決めつけが激しいという現状からすると、安吾はさしずめ左翼の急先鋒なんでしょうね。応援団嫌いの安吾ですけど、その理由というのは本文の中にある『旧秩序への復帰を正理とする人々』が嫌いなのであって、それは戦前から戦中、戦後にかけての豹変ぶりをイヤというほど見てきたからなのでしょう。

     やり玉に挙げている応援団の学生から抗議の文が来て、それに対するコラムを書いているので、詳しくはその項に譲りますが、明治時代からの伝統をかたくなに守って活動している人たちにとっては自分たち自身を否定されてしまうととっても不思議ではありません。

     ただここで安吾が言っているのは、そうした人たちが大学の自治を執ってしまった場合の憂慮について語っているのです。別に自分たちの中で好きな活動をする分には安吾は何も言わないと思います。でも現状では、応援団の大学における位置というのは結構学生自治の中枢にいる場合が多いのですよね。その点はなぜか今でも変わらず、旧秩序へのあこがれを実現させようと努力する人はちゃんといるんですよね。(2002.3.4)


  28. 慈善と献金(ヤミ論語)

    1948(昭和23年)年6月14日発行の『世界日報』に発表。

     建て前と本音と言うことで言えば、建前だけの社会というのはやっぱり不健全だと思います。これを書いている時点で、政治献金の見返りに大きな公共工事を受注したなんて話はいつの時代にもあることです。政治献金が慈善とは思いませんけど、最近のNGOにも見返りを求めて寄付をするところもあるかもしれませんね。

     企業という奴は景気が良ければ企業スポーツに力を入れるし多方面に寄付もするし、有り難い存在ではありますが、景気が悪くなったとたんにすべてカットすることも逆に珍しくありません。そんな投資の仕方というのは結局は打算と言われても仕方がないのですね。今の時代だからこそ、献金や寄付をすることに意味があると思うのですが、それだけの器のある企業というのはどれくらいあるのでしょうか。(2002.3.4)



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