坂口安吾全集第五巻

(1947.2〜12)

  1. 「花妖」作者の言葉

    1947(昭和22)年2月16日発行の『東京新聞』に発表。

     初めての新聞小説。かなり安吾は入れ込んでいたということだが、その決意のほどが十分伝わってくる序である。ただ、一度に読めてしまう全集よりも、リアルタイムで毎日読めた当時の人が少々うらやましい。全集は文字の羅列だけであるため、新聞に掲載された当時の岡本太郎画伯の挿絵も見られないのだから。(98.7.5)

  2. 花妖

    1947(昭和22)年2月18日から5月8日まで『東京新聞』に発表(未完)。

     新聞小説としては失敗作として、まさにまとめられることなく中断してしまった恰好だが、どうしてこの小説が打ちきりになったのか、理解に苦しむ。それほど面白いのである。時代的に合わなかったとしか言いようがないが、きちっとした構成がなく、その場その場の思いつきで書いていくことの面白さというのを十分感じることができた。しかし、最後まで読めないのが本当に残念である。(98.7.5)

  3. 二十七歳

    1947(昭和22)年3月1日発行の『新潮』に発表。

     矢田津世子との恋愛に苦しみ抜いた安吾の心情。それは、この作品の中では一人だけWという伏せ字になっている男と矢田津世子との関係について、感情的になっていることからも伺い知ることができる。その照れ隠しというわけでもないのだろうが、実名のまま笑いものにしている人物と、Wという人物の対比が際だっている。それは誰あろう、詩人で現在も多くのファンをもつ中原中也であるのだ。いつも嘆いているとか、飲みながらもその後の行動を計算して、金を少しだけ残しておくだとか、酔っ払うとサルマタ一枚になるまで脱ぎまくる癖があるだとか、ファンの立場からしてみればこんなことを書く安吾というのは、とんでもない奴だと怒りたくもなるだろう。しかし、中也ファンは、なぜ安吾が中也の名をそのまま書いたか、もう少し考えてみる必要がある。安吾が匿名でなく実名で書いているのは、何らかの批判があっても真正面から対処する覚悟ができていたからだ。実際、そうした批判について安吾は、弁明の文を書いている。(98.7.6)

  4. 私は誰?

    1947(昭和22)年3月1日発行の『新生』に発表。

     文学者は書いたものが全てで、言葉とか行動とかをとやかく言うものではないという。それはなにも、文学者だけに言えることではないだろう。役者や音楽家にしても全く同じことが言える。どんなに周りの人に迷惑を掛けようと、それぞれの芸術がすばらしければ、ある意味許されるものだ。品行方正であっても、やってることがつまらないというのではどうしようもないからだ。
     しかしながら、テレビのワイドショーを見ていると、芸人に模範的な生き方を強要するかのごとく叩いているのです。そのおかげでいい芸が見られなくなることもしばしば。本当に面白いものはテレビでは見られません。私たちは進んで地下に潜行するべきかも知れないね。(98.7.6)

  5. 余はベンメイす

    1947(昭和22)年3月1日発行の『朝日評論』に発表。

     坂口安吾をエロ小説家であるという人は、今はそういないだろうけど、当時の時代背景を考えると相応の批判があったはずだ。しかし、歴史的に見ると、安吾の弁明に拍手を送りたくなる。「露出女優や露出ダンスがハンランすれば、芸術女優の芸術的エロチシズムは純化され、高められる」というのは、ヘアヌード解禁後の日本の状況そのものだ。あらゆるものが出尽くせば、それらは自然に淘汰される。やみくもに禁止することよりも、他にやることがありそうなものだが。(98.7.9)

  6. 世評と自分

    1947(昭和22)年3月3日発行の『朝日新聞』に発表。

    「私が如何なる作家であるか、私は全てを歴史にまかせる」と安吾が書いたのは、弁明することに疲れたのかも知れない。しかし、弁明することばかりに熱心で、創作をおろそかにするような生き様よりは断然いい。やはり、作家というのはテレビに出て喋るよりも、何かを継続して書いていなくてはダメになってしまうような気がする。(98.7.14)

  7. 恋愛論

    1947(昭和22)年4月1日発行の『婦人公論』に発表。

     恋愛は人生の花であるとは、まさに言い得て妙である。どんなに美しい花も、時間が経てば色あせる。しかし、そうとはわかっていても私たちは美しい花を見ずにはいられない。
     更に言うならば、人間は孤独に陥るのが恐いのだ。人と交わることを欲するのは、その恐怖から一時的に逃れるためということもあるだろう。また、人間は恋愛のためにしばしば理性を失ったりするが、まさしく莫迦であるとしか言いようがない。しかし、莫迦になることを恐れていては、恋愛などできない。悟りすましたような顔をして、なお生への欲求に振り回されている人こそ、軽蔑されるべきなのだ。恋愛にうつつを抜かしている人間は、それほど軽蔑されることはない。(98.7.14)

  8. 酒のあとさき

    1947(昭和22)年4月1日発行の『光』に発表。

     この文章を読んだのは初めてだが、ほとんど以前書いてあるものと重複しているのでそれほどの感動はない。ただ、新潟で生まれながら日本酒の味が嫌いというのも面白い。高級なコニャックやウヰスキーは気持ちよく飲めたそうだが、新潟の良質の蔵の日本酒なら、それほど痛烈な匂いもしなかったろうに。ビールも嫌いと言うことだから、西洋のお酒の肩を持っているわけでもなさそうである。あと、この文章で出てこないのは焼酎とぶどう酒(ワイン)であるが、私の考えではどちらも好かなかったのではないかと思う。安吾は酒は酔うために飲んでいると書いているから、焼酎は手軽に酔えるにしろ、味をうんぬんするものでもなかろうし、ぶどう酒と言えば当時は甘さを加えたものがポピュラーだったから、安吾には鼻についたかも知れない。まあ、酔えればいいという人に、これ以上のごたくは必要ないだろうが。(98.7.14)

  9. 大阪の反逆

    1947(昭和22)年4月1日発行の『改造』に発表。

     最近はまた、特に大阪の人達の元気がいい。しかし、東京あっての大阪であるというのは、昔も今も変わらない。とはいっても、大阪の人に東京を意識するなといっても難しいだろう。しかし、そんなことも考えなくてもよい時代が来るのかも知れない。インターネットで発信してしまえば、その発信元が東京であろうが大阪であろうが関係なくなるからだ。(98.7.14)

  10. わが戦争に対処せる工夫の数々

    1947(昭和22)年4月20日発行の『文学季刊』に発表。

     面白さというものは、計算されたものもあれば、まったく意図しないところでのものもある。ここでも安吾は大真面目に戦争の時の対処の方法を語っているのだが、戦争というものが非日常なものであるために、地道な努力も滑稽に映ってしまうのだ。でも、夏の暑いときからいつまで水風呂に入り続けられるかという努力や、空き地にサルマタいっちょうで、大きな石を担いで走り回るという訓練をしていた安吾はやはり面白い。後の税金闘争にしてもそうなのだが、大真面目な上にサービス精神旺盛というところが安吾の魅力の一つであると私は思う。(98.7.14)

  11. 序 [『逃げたい心』]

    1947(昭和22)年4月20日発行の単行本『逃げたい心』の巻頭に発表。

     昔の作品について、言い訳を書きまくる序というのも変わっている。〆切までわずかの時間しかなく、短編を書いたものの私小説のようでいてその実そうではなかったと、裏事情まで暴露している。
     きちっとした短編を書くのは、長編を完成させるよりも大層難しいというのは安吾の実感であるが、正にその通りであろう。短編によっても真実を語りうる技術を習得したという言葉の通り、この時期に安吾は代表作となる短編を発表していく。(98.7.20)


  12. 花火

    1947(昭和22)年5月1日発行の『サンデー毎日』臨時増刊号に発表。


     心中という事件に遭遇したとき、私たちはどうしても興味本位で見てしまう。そんな人が多いからテレビのワイドショーが滅びないのだが、そこに出てくるコメンテーターが、どうにかして彼らの行動に説明を付けたがる傾向がある。でも、世の中には説明がつかないこともまだ多いことも事実である。人間の心情はちょっとしたことでも思いがけなく変わってしまうもので、理屈づけること自体にはあまり意味がないような気がするが、それを楽しんでしまう人がいるうちは、今のようなことが続いていくのだろう。(98.8.18)


  13. てのひら自伝−わが略歴−

    1947(昭和22)年5月1日発行の『文芸往来』創刊号に発表。


     略歴を見るまでもなく、安吾の人生はある意味『賭けの人生』である。恋愛至上主義がはびこっている現代だが、ここは一つ賭けをして、全く相手のことの情報もない、前時代的な結婚というのも面白いのではないかという気も起こってくる。私は赤い糸など信じない。その都度どう変わるかわからない人生を、安吾のように楽しみたいと思っているのだ。(98.8.25)


  14. 貞操の幅と限界

    1947(昭和22)年5月1日および2日発行の『時事新報』に発表。


     時代の流れというものはおもしろいもので、貞操観などというものは死語になってしまったような感もある。実際、そうした世界を安吾は夢見ていたのかも知れないが、女性は強くなってきたものの、まだまだ女房という部分にしがみついている女性も多くいる。しかし、これは女性だけの責任ではない。むしろ男性が女性はこうあるべしという古い価値観で女性を縛り付けている部分の方が多いし、そのつけというのが、未来にわたってもうひと波ありそうな気がするのだが。(98.9.8)


  15. 後記 『白痴』

    1947(昭和22)年5月10日発行、中央公論社刊『白痴』の巻末に掲載


     今回の全集では、できるだけ原稿に書かれているものに忠実に再現したそうだが、「白痴」などは活字になったものとはずいぶん違っている。それもそのはずで、安吾は自分の書いたものを再び見るのが嫌で、校正の時も読んだふりをしてごまかしてしまったとのこと。そんな事情なら、あれだけ多くの違いが出たのもわかるような気がする。そして、安吾が昔の作品を読みたくないというのも、何となくわかるような気がした。(98.9.19)


  16. あとがき 『いずこへ』

    1947(昭和22)年5月15日発行、真光社刊『いずこへ』の巻末に掲載


     大衆雑誌に載るから大衆小説である。純文学雑誌に載るから純文学というのは安吾の場合には当てはまらないらしい。もちろん人によっては、その雑誌を手に取った読者のことを考えて書く人もいるだろう。しかし、安吾の場合は、ただもう機械的に順番に仕事を受けて、選別することなくそのまま雑誌に載せてしまう。つまるところ、この文の中で書かれているように、書くことが安吾の全てなのだ。だから私も、安吾の書いたものを追っかけようという気になっている。(98.9.19)


  17. 私の小説

    1947(昭和22)年5月26日から28日まで『夕刊新大阪』に発表


     この文章は、安吾の文章の中でも私の気に入っているもののひとつである。たまたまガレージセールの古本市で、角川文庫『私の探偵小説』を発見し、そこで初めて読んだ。現在は入手困難であるが、もし手にする機会があればぜひ読んでいただきたい。
     この中で、安吾は自分のことを西遊記に出てくる猪八戒になぞらえている。考えてみれば猪八戒は崇高な旅の目的があって天竺まで赴いたわけではない。単に、強制的にお供にさせられて仕方なく向かったのである。いわば成り行きのようなものだが、現代に生きる人はみな、仕方なく自分の好きでもないことをしながら天竺を目指しているとは言えないだろうか。三蔵法師のような大人物は、様々な誘惑にも負けず、一心不乱に天竺を目指すのであるが、猪八戒である凡人はそうはいかぬ。女性に騙されたり、ちょっと欲を出したおかげでとんでもない目に遭ったりする。でも、それが人間であるのだ。崇高な気持ちを持つなとは言わないが、それぞれが楽しい道中で天竺を目指せばいいと私は思う。(98.9.19)


  18. 俗物根性と作家

    1947(昭和22)年5月27・28日発行の『東京新聞』に発表


     例えば、ホームページを作るとき、さあこれから全世界へ向けてどんな情報発信をしようかと大風呂敷を広げすぎたために、全く何から手を着けていいのかわからなくなってしまう場合がある。こんな時は、はっきり言って他人の真似から入るのがいいと解説本などには書いてあるのだが、まさにそういうことだ。
     何でも自由に書いていいと言われると、逆に困ってしまうもので、私の場合もテーマを決めて書いているからこそ、遅々としてではあるがホームページの更新が進んでいくのである。安吾の言うとおり、人間の心や力というものは、本当に頼りないものである。(98.9.19)


  19. 暗い青春

    1947(昭和22)年6月1日発行の『潮流』に発表。


     安吾らが出した同人誌が岩波書店から出たということは以前にも書いたが、芥川龍之介の書斎でその作業をしていたという。当時の文学青年にとって、芥川の自宅に出入りし、その存在を肌で感じることができたと言うことは、とてつもなく大きな経験であろうと想像する。暗い青春であったと安吾は回顧しているが、その暗さがうらやましくもある。(98.9.18)


  20. 破門

    1947(昭和22)年6月1日発行の『オール読物』に発表。


     まさしく安吾本人としか思えない大先生と彼の文章に陶酔しきっている若い女性。後に安吾の妻となる三千代さんを連想させなくもないが、全編にわたったふざけた書き方によって、重厚感というものは感じられない。しかし、こういうものは安吾が実に楽しんで書いているような気がする。秀作とはお世辞にも言えないかも知れないが、こういったものまで読めるというのが、全集を読んでいて面白い点ではないかと思う。(98.9.19)


  21. 教祖の文学

    1947(昭和22)年6月1日発行の『新潮』に発表。


     鑑定するということは、もう評価の定まった物についてその価値を語ることである。テレビの番組を見て、家にはあんなお宝はないと嘆く向きもあるかもしれぬが、発想の転換をすれば、今あるガラクタがいつ息を吹き返してお宝に変わるかもわからない。一番損をするのは、鑑定家の言葉を真に受けて、欲しくもない名品を大枚はたいて買い込んでしまうような場合であろう。だいたいにおいて、そんな場合は購入金額に比べて高値で売れるはずがないのだから。
     これからも評価が変わることのない物について言及することよりも、今ある実勢を見て語るべきではないのか。しかし、人間は権威にすがっていた方が楽なので、つい名品なり亡くなった人のことを神格化してしまう。正にいいお手本が、この文章の中で安吾自身が罰当たりと書いた宮沢賢治の事だろう。安吾のように、少し距離を置いて鑑賞する分には、宮沢賢治は非常に優れた書き手である。しかし、その存在全てを神格化するような状況に至っては、本人に悪気がなくても偏見を持って見てしまう人が出てくることは止むを得ない。そういうところがわからないのが、ファンというものなのか。これは私の勘だが、宮沢賢治の書いたものが好きですという若い女性が、実際の宮沢賢治に会ったら、百年の恋も一瞬にして冷めるのではという感じがする。安吾についても、それほどのめり込むことなく、客観的にこれからも読んでいきたい。(98.9.19)


  22. ちかごろの酒の話

    1947(昭和22)年6月1日発行の『旅』に発表。


     最近、思うことの一つに旅館の値段の高さがある。こちらはいい温泉とそこそこの食事があればいいのだが、何とも中途半端な懐石料理と称するものが出て、一人二万円以上というのだから、全くあきれる。言うならば過剰サービスなのだ。山の宿に泊まるということならば、こちらはひからびたまぐろの刺身を期待しているのではなく、派手さはなくても近くで取れた川魚や山菜のたぐいで満足するのである。
     さて、話を近頃の酒の話に切り替えよう。酒においても、大量生産ができるようになった今、造り酒屋の良心によってその味が決まってくる。安吾のふるさと新潟では有名な地酒があるが、近くの酒屋では一升二千円もしない酒を、一万円という値を付けて売っている。手間暇掛けて、それだけの価値があるのならいいのだが、まさに最初に挙げた旅館のごとく、味ではなくて雰囲気を買う人がいるからこんな商法もまかり通るのだろう。それで、越乃寒梅は最高だとかうんちくだけは人一倍抜かすのだから始末に負えない。この点だけは、安吾の頃から一向に変わる気配がない。(98.9.19)


  23. 金銭無情

    1947(昭和22)年6月から11月にかけて発表。後に文藝春秋社から単行本として刊行。


     面白い。『花妖』も面白いと思ったが、残念ながら未完に終わっている。しかし、この一連の短編は最後まで完結しているのが嬉しい。前半までは文庫本で読んでいたのだが、続編は未読だったので、今回は貪るように読んだ。
     一瞬にしてお金が儲かるときは儲かる。しかし、まさにバブルのごとく消えてしまうのもお金だ。それに男と女が絡まって、様々な物語が展開していく。終戦直後と現在の不況という不安な時代であるから想いを共有しながら読めるということもあるのかもしれない。(98.9.19)


  24. 桜の森の満開の下

    1947(昭和22)年6月15日発行の『肉体』に発表


     ほぼ一月の間が空いてしまいました(^^;)。こういうのは、ふとしたきっかけで間が空いたり空かなかったりするのですね。今日、週遅れのテレビで『開運!なんでも鑑定団』を見ていたら、安吾の直筆原稿が出てきて、業界では安吾の生原稿は、400字詰め原稿用紙一枚10万円なんだと聞いて、びっくりしました(^^;)。出所は文藝春秋社の女性編集者だそうですが、いとも簡単に自作の原稿をあげてしまうとは、なかなか豪快な人だと改めて思います。
     さて、この作品です。これは安吾の代表作として有名ですが、この掲載紙はそれほど有名ではなく、どの作品をどこの出版社から出すと言うことにも無頓着だった安吾の真骨頂という感じがします。何と言っても書き出しがいいですね。全然安吾を知らない人でも、「桜の花の下は怖ろしい」というキーワードとともに、ぐいぐいと物語に引き込まれていきます。この作品が書かれた当時は戦争が終わったばかり、同期の桜の歌も人々の胸に刻み込まれていたでしょうから、今の私たちより桜の恐ろしさというものが実感として捉えられたのかも知れません。(98.10.18)


  25. 私の探偵小説(1947.6.25)

    1947(昭和22)年6月25日発行の『宝石』に発表。


     安吾と探偵小説ということで言うと『不連続殺人事件』ですが、この随筆の最後のところで、その発表の仕方から読者に賞品まで与える旨を書き記しています。エンターテイメントというより、ゲーム感覚であることは文章を読んでいるとわかります。その『不連続殺人事件』ですが、本文はもちろんですがその間にはいる、読者を挑発する文章が絶品なんですね。これも、安吾がゲーム感覚で書いていた結果のたまものでありまして、現代の私たちも楽しめるわけで。安吾の探偵小説や捕物帖は面白いです。まあ、改めて紹介していきますので。(98.10.24)


  26. 後記(『堕落論』)

    1947(昭和22)年6月25日発行の『堕落論』(銀座出版社)巻末に掲載。


     実は、この銀座出版の単行本を持っています。近所の古本屋というより古道具屋さんで三版ですが千円で売ってもらいました。しかし、初版から三ヶ月後の9月25日にもう三版ですからすごいものです。この文章の中で触れていますが、凝った活字の組み方を全般にわたってしていたり、亡くなった友人長島氏の遺稿が掲載されています。ここで感じられるのは、安吾の友人に対する心づくしでしょうね。友人の長島氏のために、精一杯のことをしてあげたかったという安吾の心遣いがこの本に結実していると言えるでしょう。それを安吾の思想の根幹とも言える、この評論集で行ったということに、並々ならぬ思いを感じます。(98.10.29)


  27. オモチャ箱

    1947(昭和22)年7月1日発行の『光』に発表。


     安吾がデビューするきっかけとなったのは、作家の牧野信一に激賞されたからである。安吾にしてみれば大恩人であるのだが、牧野自身は悲惨な死を迎える。名前は変えているがこれは牧野の物語なのである。作中に安吾が書いていることだが、無名作家が上昇志向で赤貧に耐えるのならいざ知らず、一度文壇に認められた作家に仕事が来なくなったときその末路は悲惨である。しかも、文章を書くより仕方がないつぶしの利かない人間とくる。
     安吾はそんな牧野を叱咤激励しながら、強い愛情を持っているかのようだ。安吾の著作を読む私にしても、牧野という存在がなかったら安吾の作品を読めないかもしれなかったわけで、牧野の存在は忘れるわけには行かないだろう。題名の『オモチャ箱』というのも哀愁を感じさせる。文学は役に立たないオモチャのようなもの。自分の生活自身が作品であるというなら、生活そのものがオモチャ箱の中に入っていたようなものなのか。しかし、げに怖ろしきは奥方の執念である。男と女というのはやはり永遠に解り合えないものなのか。(98.11.18)


  28. 悪妻論

    1947年(昭和22)年7月1日発行の『婦人文庫』に発表。


     遊ぶことの好きな女は、魅力があるに決まっている。そう安吾は言い放つが、現代ならば普通に口にしているこんな言葉も、半世紀前の日本では、非常に勇気がいることだったと思う。他人同士が暮らすという夫婦の関係が平安であるはずがないと、いわれてみればそんな感じもするが、世の中の人は苦しみを求めて結婚をするわけでもないだろう。ここらが安吾お得意の、逆説を弄しながら物事の真理をえぐり出す方法論であるような気がする。
     知性なき悪妻は、ほんとの悪妻だと安吾は書いているが、これは女性だけに言えるのではなく、男性にも同じように当てはまるのだろう。お金を持っていたり学歴があるのは重要かも知れないが、単なるバカではだめだということですね。しかし、女性の場合はどうなのだろう。さすがに安吾はその辺の男の本性についてもちゃんと心得ていて、魅力があればいいという風に書いてはいる。しかし、年とともに衰える魅力というのもあるわけで、その辺に悪妻というものを考える鍵があるのではないか。(98.11.24)


  29. 再販に際して(『吹雪物語』)

    1947年(昭和22)年7月5日発行の単行本『吹雪物語』巻末に発表。


     昔書いたものを後から人に読まれると恥ずかしい。まさに、このホームページの中で一番恥ずかしいのがここの部分で(^^;)、力を入れて書いている分、恥ずかしさも倍増する。
     安吾の書いたものの中で、多分一番恥ずかしいと思ったのがこの『吹雪物語』だということは容易に想像できる。プライベートをそのまま小説にしてしまうというのは、自分の心の中を人に見られるということでもある。初版はところどころ伏せ字があったそうだが、この再版ではそうした伏せ字をなくし、この文を巻末に書いている。恥ずかしいけど、書いちゃったものはしょうがない。煮るなり焼くなり勝手にしろということなのだろう。文士の中には全集に入れるときに、手を加えるひともいるらしいが、私個人としたら安吾のようなやり方を支持する。作品とは自分の子供のようなものである。それがいい子か悪い子か。どっちにしても我が子には変わりないのだから。(99.2.4)


  30. 大望をいだく河童

    1947年(昭和22)年7月16日発行の『アサヒグラフ』に発表。


     全くこれは、雑文だ。理屈抜きに面白い。でも、これは安吾が書くから面白いのだろう。単に面白いだけで内容はない。それも、雑誌の企画で、自分の書いた似顔絵に添えられた文章だからだ。表題の意味は、安吾自身のことである。まさに、言い得て妙という感じもするが。(99.2.4)


  31. 邪教問答

    1947年(昭和22)年7月20日発行の『夕刊北海タイムス』に発表。


     安吾が無頼派と言われる所以は、宗教的なものから距離を置いていたということもあるのだろう。狂信的な宗教と、全国行脚に大騒ぎする天皇家とは同じ類のものだという指摘は、天皇家を崇拝する人たちにとっては許すことのできないことだろう。この文章に限らず、安吾はこの種の啓蒙をいろんなところでしている。しかしながら、人間というものはまことに弱いもの。璽光様の代わりにいろんな神様が出て、とんでもない悪さをする奴も現れた。もし、安吾のこうした指摘に耳を傾けていれば、天皇家も、新興宗教における諸問題も、違った展開をたどったかも知れない。


  32. 観念的その他

    1947年(昭和22)年7月20日発行の『文学界』に発表。


     日本人は観念的だ。サルトルを読む日本の批評家の批判する安吾の指摘は的確だ。サルトルが共産党員だからという前提で批評をするとは。まあ、今の世にもこういう人たちはいるのですが。第一、そうした記号を用いれば、数学的に答えを導き出せるとでも言うのか。どういう人が書いたからというのではなく、どういうものを書いたかが重要なのに。だから、イメージだけが先行する作家さんはかわいそうだ。批評家は、なかなか最初についたイメージから脱皮せずに同じ批評を続けるでしょう。あの筒井康隆さんも、一時訳の分からないSFを書く作家だと思われて、だいぶ苦い思いをしたそうですが。


  33. 散る日本

    1947年(昭和22)年8月1日発行の『群像』に発表。


     少し前、百貨店の古本市で、この文章が収録された『群像』を手に入れました。この当時は、紙質も悪くページ数も64ページと(^^;)少なくて、雑誌と言うより別冊付録という案配です。また、表紙裏には数々の製薬会社の広告の数々。さすがにヒロポンの広告はありませんが、この中でも書かれているとおり、栄養事情の影響か、作家編集者はいろんな薬を飲んでいたようですね。
     そんななかでも、将棋の棋士というのは、安吾の書いたものを信じるとするならば、薬はやっていなかったらしいです。生々しい棋士の声を再現するこの文章はエッセイと言うよりも良質のルポルタージュという感じがします。負ければ即立場を追われる将棋の名人と、一度名誉を手に入れてしまうと、二度と落ちない種類の人たちとを対比させて、ぬるま湯に浸かっていると批判しているようで、とても小気味いい。高名な文学者や政治家を実質がないと言っているのですが、ああいった人たちはやめろと言われているのに、延々と居残りますからね(^^;)。(99.3.4)


  34. 推理小説について

    1947年(昭和22)年8月25日発行の『東京新聞』に発表。


     安吾の推理小説好きというのは、あくまで謎解きの娯楽的な面白さという部分に限ってのことです。ここで書いている憤懣やるかたない気持ちは、後で『不連続殺人事件』を書くときの動機付けになっているのでしょう。ここで書いているとおり、犯人探しを楽しむためのゲームとして作家仲間と犯人当てをやっていたそうです。つまり安吾にとってはゲームを進行させるための小道具に過ぎないわけですから、探偵が知識をひけらかすようにどうでもいい状況を解説して枚数を稼ぐのは我慢ができなかったのでは。たぶん安吾がもう少し生きていたら、ミステリーというジャンルを認めなかったのではないでしょうか。
     しかし、そうした中で特に、小栗蟲太郎を徹底的にこき下ろしているのが笑えます。小栗の探偵小説はまさに典型的な初期ミステリーだと思うからです。有名なのは『黒死館殺人事件』ですが、私は探偵小説とはちょっと毛色が違った「魔境探検もの」の方が好きなのです。新青年という雑誌があって、江戸川乱歩というカリスマがいて、ここら辺の小説がすべて『探偵小説』とひとくくりにされてしまったというのも不幸だったのかも知れません。
     さて現在これだけミステリーが隆盛になっていると、安吾の徹底した娯楽主義も新鮮に思えてきたりします。その結果、安吾はどんな作品を作ったのか、それはまた後で紹介することにしましょう。(99.3.12)


  35. 理想の女

    1947年(昭和22)9月1日発行の『民主文化』に発表。


     理想の女とは何でしょう。安吾は男性なので、理想の異性と置き換えてもいいか。それを小説に書きたいと思いながらも、いつでもあらぬ方向に脱線してしまって、結局理想の女は書けないと言うことになってしまいます。全く正直な物言いです。一口に理想の女と言っても、年齢とともに変わってくるだろうし、そうなると様々な理想の女を書かなくてはなりませんし。実際のところ、安吾は自分の感情を正直に出して、いろんな魅力ある女性を登場させています。このすぐ後に安吾は何を書くかというと、安吾夫人の三千代さんのことを書いた『青鬼の褌を洗う女』なんですね。こういう風に、時代ごとに書いたものを再確認していく作業というのは面白いですねえ。(99.5.12)


  36. パンパンガール

    1947(昭和22)年10月1日発行の『オール読物』に発表。


     パンパンという言葉は、もうとっくに死語になってますね。語源は手を叩いて客を取ったとか、インドネシア語説なんてのもあるそうで。いわゆる、戦後の元はアメリカ兵相手の売春婦のことです。この安吾の文章ではアメリカ兵だけと言うことではなくなっているみたいですが。
     パンパンというのは何というか、非常にあっけらかんとした語感ですよね。そうした風潮に嫌気が差して『銀座カンカン娘』という歌が生まれたという話もあるのですが、それはおいといて安吾は彼女らの自由活発さに置いて、パンパンガールを擁護するのです。そのあっけらかんとした姿は、ある意味テレビで放送されるような興味本位で報道されるローティーンの女性の姿とだぶっていきます。とんでもないと良識ぶったテレビのコメンテーターが、いくら口を酸っぱくしてコメントしてもしょうがないのになあとつくづく思いますね。でも、無知はいけませんよ。病気をうつされたり、ホストクラブに貢いだり、そうしたことを自衛してかつ自由奔放に楽しむすべを、若い子には持ってほしいのですがね。(99.5.12)


  37. 青鬼の褌を洗う女

    1947(昭和22)年10月5日発行の『愛と美』に発表。


     最初にこれを読んだときには、女の人は本当にこんなことを考えているのかという気がしました。実際書いている安吾は男性なんですからね。しかし、最近はネットでも赤裸々な日記を書く女性が結構いまして、それらを読むに連れ、これは凄いと改めて安吾の観察力に脱帽した由。しかし、こんなものを読んでしまうと、女性に対して物わかりのいい、安吾がここで書いているような男になってしまうような感じがしてきてしまいます(^^;)。安吾は後に婦人となった三千代さんに、これは君のことを書いたのだといって読ませたそうですが、今は逆に女性の方から『私はこういう女なのよ』と言って彼氏に読ませるのがいいかも。読まされた方にはご愁傷様と言うしかないのですが(^^;)。(99.6.6)


  38. 思想なき眼 ――「危険な関係」に寄せて――

    1947(昭和22)年10月10日発行の『世界文学』に発表。


     テレビの企画で『芸能人格付けチェック』というのがあります。一流と呼ばれる芸能人に、超高級と普及品を感触で比べさせ、それがしっかり評価されていればよし、はずしたら笑おうというもの。例えば超高級ワインとテーブルワインを比べたりもしているのですが、恐らく私が試したら超高級ワインは全く口に合わず、これはまずい(^^;)というものを挙げれば合格となるでしょう。
     価値があるということはそれなりに含蓄ある何かがあるわけで、それがわからないような奴は駄目だというのが、この番組を作っている人たちのコンセプトなのでしょう。ただ、それこそが安吾の言う、『世捨人の思想によって曲げられた通俗的なフシアナの眼』ではないかと思うのです。
     これは、かなり昔のことになりますが、車で一路、安吾のふるさとを訪ねて日本海の淋しい海岸線を走ったことがあります。たまたまそこで酒盛りをやっている人たちに出くわし、すすめられるままに供宴にあずかったということがありました。そこで出てきた酒は日本酒で、ワンカップの酒でした。新潟といえば日本酒の宝庫、越の寒梅・雪中梅・八海山という有名どころは弥彦神社のそばにある売店では一合800円から1000円もしました。それらの銘酒と呼ばれるものと、このワンカップの酒はあまり遜色がありませんでした。確かに観光客なら一杯千円出しても飲みますが、本当に酒が好きなひとが毎日飲むのに、そんなお金を出せませんものね。
     確かに思想をすることは必要ではありますが、それに頼り切ってしまってはいけません。思想なき眼でみないことにより、私たちはいいものをみすみす逃しているのかもしれないのですから。(99.10.22)


  39. 後記 [『道鏡』]

    1947(昭和22)年10月25日発行の単行本『道鏡』(八雲書店)の巻末に発表。


     題名というのは大事だと人は言います。特にこれだけ新刊の本が氾濫する現代においては、その付け方で売り上げが左右される事が実際に起きています。『平気でウソをつく人たち』もそうですし、『本当は恐ろしいグリム童話』なんてのもそう。特に後者は以前からその種の本は存在していたのにも関わらず、あの本だけ売れたというのですから、やはり題名だけで相当のインパクトを与えたことが想像できます。
     さて、そうした意味から言えばここで安吾が書いている『道鏡』という題名は非常に興味をそそられるものであります。私も読んでいて、道鏡という題名なのに女帝である孝謙天皇の事が中心に書かれていて変だなと思っていたのですが、ジャーナリズムに媚びてついつけてしまったということでなるほどと納得したのでした。題名というのはやっぱり難しい。でも小説の場合は文章を書いているのだからそれでもつけやすいけど、音楽、特に歌詞のない音楽の題名というのは相当いい加減につけられている場合が多いそうです。そういう意味からすれば、安吾が書くように『小説の題なんて、なんでもいいのだ』ということも一理あるかもしれません。(99.10.22)


  40. 決闘

    1947(昭和22)年11月1日発行『社会』に発表。


     戦後強くなったのは女と靴下という話がありますが、まさしくそれを地でいくような話です。特攻隊員といえば、その境遇故に何をやっても構わないようなところがあったようですが、生き延びて戦争が終わってしまえばただの人。それまであこがれの対象であった可愛い娘さんを巡って決闘をしたあげく、全員捨てられてしまうという憂き目にあってしまうとの、男性にとっては誠に恐い話。力を誇示して相手を屈服させるような輩は、結局相互に派手な喧嘩をやらかして共倒れになってしまうというのは、それこそ中国の共産党・毛沢東がとった軍閥に対する対応そのものです。そうして徐々に力を付けた中国紅軍は、ついには全権力を掌握してしまったのですからこういうことを考える奴は凄い。くれぐれも私は消耗する方に回らないように気をつけないと(^^;)。(99.10.25)

  41. 新カナヅカヒの問題

    1947(昭和22)年11月1日発行『風刺文学』に発表。


     『カナヅカイ』でないことに注意。実はこのエッセイ、以前に読んだことがあったのですが、その印象がまるで違いました。実は全編を通して歴史的仮名遣いを使って書いているのです。それでいて内容は新仮名遣いに賛成だなんて事を書いているのだから笑えるというもの。新しく文学全集を編む際に、源氏物語でも徒然草でも、現代語訳にして寝ころんでも読めるようにせよと安吾は主張するのですが、これだけは歴史的仮名遣いで読んで欲しいですね。中にはわざと、普段使わない仮名遣いをしているところも見受けられるので、この全集版のオリジナルを読んでいない人には、是非ご一読をといっておきます。安吾は気むずかしい部分もあったかもしれませんが、こうした道化的なところも十分に持っていたのであり、ここは素直に読んで楽しませていただきました。(99.11.8)


  42. 娯楽奉仕の心構へ

    1947(昭和22)年11月1日発行『文学界』に発表。


     人々の休養娯楽に奉仕する人というと、文学者の他には芸人一般という人たちがいますよね。そうした芸人のことを日本では昔から河原乞食と呼んで差別してきました。つまり、生産に従事するものが人間のあるべき姿で、そうでなく他人様の生産したものを消費するだけの人というのは人間扱いされなかったということなのでしょう。そうしたことがエスカレートすると、どうしても真面目で深刻なものを有り難がり、おちゃらけたものを軽蔑するようになってしまう。面白いのは、時代が進んでいくと、それまで軽蔑してきたものでもだんだん歴史を重ねて権威がついていくに従って、人々が有り難がる傾向があることです。歌舞伎なんて始まった当初はあんなに権威があったわけではないのに、今は我が物顔で日本の文化を標榜しているような気がします。もちろん、歌舞伎が全く面白くないと言うわけではありません。それなりに予備知識を持って見れば十分面白いと思うのですが、どうも気位が高いところが舞台になかなか足が向かないということになってしまいます。
     まったくもって、実質で判断し、それを声高に叫ぶことはいかに難しいものか。いったいに、歌舞伎を見に行っている多くの人たちは本当に面白がって笑っているのか、私は逆にそのことについて考えてしまいます。(99.11.9)


  43. 阿部定さんの印象

    1947(昭和22)年12月1日発行『座談』に発表。


     阿部定さんとは誰か、知らない人もいるかもしれないのでちょっと説明を。愛人を殺した上に、その一物を切り取って大事に持っていたということで世間の注目を浴びた女性なのですが、当時は恐いもの見たさや好奇心でこんな風に雑誌に取り上げられたのでありましょう。
     ここで安吾は、あまりにも猟奇的な殺人事件の犯人である阿部定さんを普通の人だと言い切っているのですね。逆に、普通に暮らしている私たちにもいつでもそうした事件の主人公になってしまうかもしれないと警鐘を鳴らすのですが、全くもってその通り。ここのところ起きている無差別殺人や猟奇事件は大変なことだと思っていても、過去の犯罪記録をひもといてみればあきらかです。別に今の時代が変なのではなくて、いつの時代にも変なものはいる。しかし、その変なものに自分もなる可能性があるということを自分の問題として考えることも必要なのです。
     むろん、被害者の立場からしてみれば殺人犯のとった行動は許されるべきものではないでしょう。しかし、何を考えているかわからないということはそうそうあるものではなく、どうして犯罪を犯すに至ったのか、心情については理解できるはず。新日本文学協会会員で死刑囚の長山則夫氏を日本ペンクラブに入れないという事件がありましたが、そうした論理は、安吾にとっては全く相容れない事だったのではないかと思います。(99.11.10)


  44. 思想と文学

    1947(昭和22)年12月8日発行『読売新聞』学芸欄に発表。


     なかなか長編小説が読めないのは、最近ではテレビやインターネットなど、読書を阻害するものが多いからです。でもまあ、読んでいる人は読んでいるのですね。最近のベストセラーは総じて長編小説だし、単に自分の怠慢なのかなあとも思うのですが、実際少ないながらも読み終えた小説は自分にとってはあっという間に読み進めてしまうものなのですね。
     安吾の書くように、長編小説という形になっただけで、人生五十年のなかで精一杯あがいているものを読んでしまうと、これが病みつきになってしまうのです。書く方だけでなく読む方もそういう心持ちがあれば書き手の思惑にまんまと乗せられてしまうということでしょうか。でも、安吾の『吹雪物語』は、ちょっと読むのが辛いですね。(99.11.10)


  45. 第二芸術論について

    1947(昭和22)年12月30日発行『詩学』に発表。


     第二芸術とは、第二次産業のようなものなのでしょうか。私も桑原武夫氏の論文を読んでいないからその辺のことはあんまりわからないのですが、現代の芸術家の活躍を見ていると、そうしてわざわざ芸術の垣根を作ること自体がナンセンスだということがわかります。特に作家なんていうのは、文学専門店のような人よりも、既に何かで名を成した人たちの方が世間的な受けもいいし、第一評価を得ていますものね。詩人どころか音楽家が小説を書く時代です。そんなわけで安吾はひどく真っ当なことを書いているという感じしか受けないのですが、当時というかその昔の日本では細かいところに更に細かく分け、権威付けることで、少数の人々の権利を守ろうなんて事をやっていたんでしょうね。そういう姑息なことをやっているから、今外国の黒船が襲来し、そのつけを払わされているのでしょう。安吾の声に耳を貸さなかった人たちには十分こうした安吾の言葉をかみしめてもらいたいですね。(99.11.10)




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