坂口安吾全集第四巻

(1945〜1947.2)

  1. 咢堂小論

    1947.6『堕落論』(銀座出版社)に執筆年「昭和二十年」の記載がある。

     短い文章の中に、後年発表される『堕落論』に通じる主張が随所に認められる。人間性は変化しないと安吾は書いているが、まさしく現代でもそうだ。党派の永続性などはあり得ないとか、残虐なのは戦争であって原子爆弾そのものではないなんていう指摘は、現代においても有効である。(1998.6.1)

  2. わが血を追ふ人々

    1946(昭和21)年1月10日発行の『近代文学』に発表。

     天草四郎が出てくる、切支丹ものの歴史小説であるが、枚数も少なく長編小説の序章といった面もちの作品である。結局反乱もまだ始まらないうちに終わってしまい、読んでいるこちらとしては、いささか拍子抜けの感がしないではなかった。(1998.6.1)

  3. 地方文化の確立について


    1946(昭和21)年2月25日発行『月刊にひがた』に発表。

     この文章も、後年の文章を思い出させる表現に溢れているが、故郷である新潟の雑誌に書いたということで、「東京の亜流となるな」というような助言が最後に書かれている。ここで特筆すべき事柄があるとするならば、戦後の左翼について、「搾取さえなくなれば人間の楽園が訪れるやうなことを言ふ」と、こき下ろしていることだろう。安吾は軍人と同じように、戦後現れた左翼主義者にも文化の香りがしないことを感じとっている。文化によって人間性を動かさないと、多くの人間は都合よくいつまでも動いてくれないと言うことは、多くの運動が時間が経つにつれて停滞してしまっていることからも明らかである。人々がメーデーに出席するより、家族で遊びに行く方を多くの場合願うのは、活動家が文化というものをあまりにも軽視した結果なのではないか。ついそんなことを考えてしまうのはなぜだろう。(1998.6.1)

  4. 朴水の婚礼

    1946(昭和21)年3月1日発行の『新女苑』に発表。

     これは小田原を舞台にした、戦時中の安吾の生活をほうふつとさせる小説である。登場人物はおしなべて酔っ払っているが、書いている安吾本人も酔ったまま書いたのではないかと思えるほどである。詩人の「芥中介」という人物が作中に出てくるが、これは芥川龍之介と中原中也を合わせたのではないかなんて思ってしまう。騒々しくもあるが結構読んでいて楽しくもある。(98.6.2)

  5. 処女作前後の思ひ出

    1946(昭和21)年3月1日発行の『早稲田文学』に発表。

     安吾が文士として世に出るまでのことが、ごく簡単に綴られている。しかし、坊主になろうとして挫折したあと、アテネ・フランセへ入学したことは安吾にとってつくづく幸運であったと思う。同人雑誌の何たるかも知らない人間が、友人の強力なコネがあったとはいえ、何と岩波書店が発行する同人雑誌に書くことになってしまうことになるのだから。(98.6.2)

  6. 堕落論

    1946(昭和21)年4月1日発行の『新潮』に発表。

     これはもう有名な評論であるから、解説の必要はないかもしれない。生きよ堕ちよと安吾は大アジテーションをするわけだが、これらのことはこの文章でいきなり言い出したのではなく、以前からの論の焼き直しという部分もある。人間性を改めて構築しようとの安吾の呼びかけではあったが、軍国主義が会社主義に変わっただけで、依然として日本人は何かの権威に頼らざるを得ない状況が続いていた。しかし、会社主義というものも崩壊してしまった現在、私たちは一体何を拠り所にしていけばいいのか。そんな時にこそ、安吾の言葉が再び意味を持ってくるのだ。(98.6.3)

  7. 白痴

    1946(昭和21)年6月1日発行の『新潮』に発表。

     今回の全集で特徴的なことの一つは、直筆が残っているものについては、その原稿を参考にしているということである。この作品「白痴」は、原稿が残っていたので今回原稿を参考にした初めての掲載となった。そうした情報を最初に仕入れてから読み始めたためだろうか、少し最初に読んだ時の印象と違っていた。白痴の女と伊沢とのことが、もっとなまめかしい表現で書かれていたような気がしたのだ。念のため、最初に読んだ文庫本と、数年前手に入れた中央公論社発行の単行本『白痴』初版本を開いてみたが、細かいところでの違いはあったものの、内容自体が変化しているわけではなかった。もしかすると、その当時は私自身が過度に肉欲を意識しながら読んでいたのかもしれない。(98.6.4)

  8. 天皇小論

    1946(昭和21)年6月1日発行の『文学時標』に発表。

     以前どこかの会合で「天皇家を民営化してはどうか」と言った人がいた。民営化すれば、天皇家は国民の税金で生活することなく、天皇家の押しいただく人々によって生活は保証されるに違いない。そうなれば、もし天皇制廃止なんて声を挙げられても、キッパリとした反論が天皇家自身の手でできるような気がする。安吾が言う「天皇をただの天皇家に戻すことが必要」という論は、もっと真剣に議論されるべきだったと思うが、いつの間にか長い年月が経ってしまった。(98.6.4)

  9. 外套と青空

    1946(昭和21)年7月1日発行の『中央公論』に発表。

     安吾の女性観というのは非常に興味深いが、ところどころ矛盾に満ちている。でも、それこそが人間の難しいところで、男女の関係が簡単に割り切れるようなら、こんな小説が書かれる必要性もないだろう。男性側の論理とすれば、女の肉欲に溺れ、その肉体を独占するために結婚ししたいと考える太平の考えは一般的なもので、恐らく今日においてもそう変わりはないのではなかろうか。しかし、当の相手のキミ子にとってはそうではない。安吾の描く女性の典型と言えなくもないキミ子を前にすると、太平はそれまで侮蔑していたことも忘れ、ただむしゃぶりつくだけである。精神が肉体の前ではまったく歯が立たないと安吾は苦悶しながら物語を綴っていったのである。(98.6.5)

  10. 文芸時評

    1946(昭和21)年7月3〜5日『東京新聞』に発表。

     文学者は安易に告白の方向に走るなと釘を差し、戦争という一大スペクタルも人間のドラマのための小道具の一つに過ぎないと一蹴する。共通するのは、恐いぐらいの冷静なる観察眼である。今読み返してみて、戦争の記憶も鮮明なこの時期に、よくもまあこんなことが書けるなと感心する。(98.6.5)

  11. 尾崎士郎氏へ(私信に代へて)

    1946(昭和21)年8月 日東出版社刊・尾崎士郎著『秋風と母』の跋(あとがき)

     最初に安吾自身が断り書きを入れているが、ちょっと読んでいくと尾崎士郎に喧嘩を売っているのではと思ってしまう。しかし、これは安吾の照れというものかもしれず、結局は「尾崎士郎といふ人の文学的な才能は日本に類の稀なもので」とまで持ち上げている。要するに煽っているのだ。(98.6.5)

  12. 通俗作家 荷風

    1946(昭和21)年8月28日付『日本読書新聞』に発表。

     安吾の創作の姿勢は、本文にもあるのだが「如何に生くべきか」という命題を解決することにあった。戦争という偉大な破壊のあと、新たな世界を見て、それを作品にしようと考えていた安吾である。その時、旧態依然とした懐古趣味の小説を書く荷風を批判したのは、自分がこれから書いていくことに対しての決意表明とも受け取れなくもない。(98.6.6)

  13. 女体

    1946(昭和21)年9月1日発行の『文藝春秋』に発表。

     この小説を書いていく過程が、もうしばらくして発表される『戯作者文学論』で、この両方を見比べながら読んでいくと非常に興味深い。内容については安吾も書いているが、長編小説の序章といった面もちという感じで、読んでいるこちらとしては、ちょっと不満も感じられなくはない。登場人物のネーミングについて興味が湧くところではあるが、これは『戯作者文学論』の感想の中で述べることにしたい。(98.6.7)

  14. 欲望について

    1946(昭和21)年9月1日発行の『人間』に発表。

     秩序によって人間の生活は縛られる。多くの人は秩序の上に立って、個人的な欲望を抑えながら生活をしている。ではそうした欲望は悪いことなのか。
     ここでの安吾の指摘は面白い。悪徳とされる欲望も、進んで秩序を破る方向に進んだときは、結果として社会生活の幅を広げることにつながる。文化というものが発展進歩するというのは、秩序よりもこうした悪徳のおかげだというのである。例えば、あのビートルズのことを考えてみよう。彼らは初来日の際は、「悪徳」の代表のように叫ぶ人達がいて、大騒動が持ち上がった。それから30年以上が経ち、今ビートルズを諸悪の根元だという人はいない。
     ただやみくもに秩序を守るのが正しいわけではないのだ。むしろ疑問が生じたら、徹底的に調べた方がいい。(98.6.7)

  15. 蟹の泡

    1946(昭和21)年9月1日発行の『雑談』に発表。

     安吾は、小説よりエッセイの方が面白いと言った人間に大いに抗議したそうだが、それだけ完成された作品という形にこだわっていたことがこの文章を読むまでもなく思いやられる。「傑作には楽屋裏の知識はいらない」と言われれば、誠に持ってそうなのだが、あいにく多くの一般庶民と呼ばれる人達は善人ぶることが得意で、人の不幸があればすぐさまその話題を喋っているテレビにチャンネルを合わせ、どうでもいいことを話し合う。改めて安吾に指摘されてみると、私たちはいつの世も、変わりばえしないなあとつくづく思ってしまう。(98.6.7)

  16. 我鬼

    1946(昭和21)年9月20日発行の『社会』に発表。

     安吾は日本人及び、日本の歴史にも興味を持っていて、歴史小説を多数発表している。いろんな戦国時代の武将について書き残しているが、安吾最後の作品に登場し、この作品の中にも出てくるのが秀吉である。歳をとってからの子供に愛情をそそぎ込み、その駄々っ子ぶりといったら誠に狂気じみている。しかし、その裏には大いなる哀しみというのが見えかくれしている。絶大な権力を持つということはそう言うことなのか。ちなみに、この文章は黒田如水を描いた小説『二流の人』の中に、一部省略して編入された。(98.6.9)

  17. いづこへ

    1946(昭和21)年10月1日発行の『新小説』に発表。

     ここで書かれているのは、安吾28から29歳のころ、酒場「ボヘミアン」のマダムお安さんとの生活である。安吾はお安さんのことを愛していなかったと書いているが、それもそのはず、当時文壇一の美人と言われた矢田津世子のことを想っていたのだ。友人の死という事実に遭遇したこともあってか、安吾の心は複雑に屈折するのだが、これは以前の安吾が書いた「破局に身を沈めること」であるのか。この作品は、安吾の告白という形で書かれているものの、それだけでない陰鬱な圧迫感というものも同時に感じることができた。しかし安吾だけではない。生身の人間というものはどうしてこんなに淋しいものなのだろうか。(98.6.9)

  18. 魔の退屈

    1946(昭和21)年10月1日発行の『太平』に発表。

     戦争というものは悲惨なものと相場が決まっていて、空襲の悲惨さを話に聞くときや原爆の後の街の記録フィルムなどを見ていると、陰鬱なる想いがわき上がってくるのが当然と思っていた。しかし、この安吾の文章を読んでいると、全くそんな感じは受けないのだ。戦時中であるがゆえに完全なる秩序が保たれ、夜は真の闇となる。しかし、そこに生きる人の気持ちはどうだったであろうか。当時の安吾が「悪魔」と呼ぶ冷静な観察眼で描写しているからこそ、恐ろしさを感じさせないのかもしれない。
     悪魔は破壊を愛するという。戦争というスケールの大きな破壊を見たいがために、東京に居続ける安吾の魂を私は不健全だとは思わない。なぜなら、もし時分が安吾のような環境に追い込まれた場合、真っ先に山奥の温泉に疎開するのではないかと思うからである。(98.6.10)

  19. 戦争と一人の女

    1946(昭和21)年10月1日発行の『新生』に発表。

     これは創作であるが、場面設定などは同じ時期に書いている自伝的作品のような趣である。その違いというものはどこにあるのか。それは、本人からの視点だけではないところからも書けると言うことである。私の知っている「戦争と一人の女」は、女性の一人称で書かれていたように記憶していたのだが、こちらの作品の方が早く、相手の男性の三人称で書かれていたのであった。こんな読み方ができるのも、系統だてて読んでいるメリットというものか。(98.6.10)

  20. デカダン文学論

    1946(昭和21)年10月1日発行の『新潮』に発表。

     自分の生活と自分の書く作品に距離を置いて、うまく立ち回ろうという気は安吾になかったような気がする。生活のためとはいえ、やはり真面目に原稿用紙に向かっていたはずで、それが文壇の大御所への不満となって現れてくるのであろう。人は普通、安息のある生き方を好むものだが、安吾は必ずしもそうではない。本人にとってはいいのかもしれないが、そんな安吾の生きたかに付き合った人々は、実際大変だったそうで、私だったら近づかないかもしれない。(98.6.12)

  21. 足のない男と首のない男

    1946(昭和21)年10月1日発行の『早稲田文学』に発表。

     戦争中の友人に対するエッセイなのだが、ちょっと調べてみたものの、人物を特定することができなかった。しかし、ストーリーの進め方はテンポもよく、安吾独特のユーモアがうかがえる。(98.6.12)

  22. 風俗時評

    1946(昭和21)年10月13・14日および11月19・20日発行の『時事新報』に発表。

     この風俗時評には、以降書くことになるエッセイの様々なエッセンスが盛り込まれている。ただ、当時の細かい事件について触れられていることもあり、その事件がどんなものだったか、すぐにはわからない私などには少々まだるっこしい。逆に以降のエッセイには登場してこない事象について記していくことにすると、安吾の女性観というのがなかなか面白い。「女の相撲や御輿はグロテスクだが、キャッチボールは可愛らしい」というのは何とも言えないが、「女は家の虫のとなって働くものだと女自身が思っている限り、正しい文化は訪れない」というのは、鋭い指摘である。(98.6.12)

  23. ヒンセザレバドンス

    1946(昭和21)年11月1日発行の『プロメテ』に発表。

     人間の寿命は昔から比べると格段に伸びつつある。もちろん医療技術の進歩というのもあるだろうが、この日本が世界に名だたる長寿国となっているのは興味深い点である。食べ物の嗜好が違うからだという人もいるが、個人的には長寿の秘訣はテレビではないかと思う。
     全身元気の固まりであるような安吾が、わざわざ独りになりに行った京都で病気になり、絶望的な孤独感というのを感じているのだ。もし夜に電灯がなかったら、人間は暗闇と孤独のために悶死するかもしれないと。孤独というのは人間から生きるエネルギーを奪っていく。病気になったり、高齢になるにしたがって、その孤独感はますますひどくなる。しかし、幸いにして日本では夜中でもテレビの放送があるし、ラジオでも最近はNHKの深夜番組「ラジオ深夜便」の人気が高いという。テレビやラジオにすがる人間の心を悪く言い給うな。こんな癒しのシステムが整っているところは他にはそうないだろう。そんな風に考えれば、日本というのはいい国である。(98.6.16)

  24. 続戦争と一人の女

    1946(昭和21)年11月1日発行の『サロン』に発表。

     前に発表したものは、男性の三人称という形で書かれていたが、これはほぼ同じ内容を相手の女性の一人称で書いている。どちらがいいかと言われれば、もうこれはハッキリとこちらの方がいいのである。男の存在というものに比べて、女性の自由奔放とした生き方がいかにすばらしいものか。安吾はそうしたことを感じとっていたのかもしれない。戦争が終わって退屈になったとは、現代でも公言することがはばかられるような言いぐさだが、何も起こらず、閉塞的な状況しか感じることができない現代に生きている私からすると、この時代に生きていることが悔しかったりする。(98.6.16)

  25. 石の思ひ

    1946(昭和21)年11月1日発行の『光 LACLARTE』に発表。

     安吾は「家」とか「家庭」というものに嫌悪感を持っていると書いているものもあるが、自身の父母や家の思い出を綴ったこの作品を読んでみると、そう単純に割り切れないように思えてくる。よく安吾研究の文を読むときに、「私ほど母を愛していた子供はなかったのである」という部分がよく引用される。母との屈折した愛情表現を表現していることなのだろうが、今回改めて読んで注目したのは父との関係であった。父については、接する時間がほとんどないので他人のようだったと書いているが、どっこい父についてもその存在を愛していたような感じである。尾崎咢堂が自分の父親について、皮肉さ一杯でその人柄を評しているのを読んで、反感を持ったのは確かである。それが、この時期に発表された『咢堂小論』につながってきている。なにか、父親に対する意趣返しのような感じでもあるが、そんなストレートさが可愛らしくもある。(98.6.17)

  26. 肉体自体が思考する

    1946(昭和21)年11月18日発行の『読売新聞』に発表。

     動物と人間を比べた時、違いがはっきりしているのは精神というものが形作られていることだ。多くの動物は本能によって子孫を増やし、生きていく。しかし、人間は精神をコントロールすることによって本能を抑えることも可能だ。そうは言っても、精神が万能であるわけもない。現代でも、いわゆる「できちゃった結婚」というのが少なからずあるし、本能と精神の間で揺れ動くことが人間の苦悩と言えるかもしれない。こう言うことは、科学だけでは解明は難しく、文学によるアプローチが重要であると安吾は考えていたのだ。(98.6.19)

  27. 堕落論(続堕落論)

    1946(昭和21)年12月1日発行の『文学季刊』に発表。

     個人的に言うと、安吾のエッセイの中では最も好きなものの一つである。この前に同じ題名で書かれた『堕落論』よりも具体的でわかりやすいのがいい。ただ、安吾の言うとおり堕落していけば、そこに待ち受けるのは茨の道だ。楽に安定した人生を送りたい人にとっては、堕落なんてとんでもないと言うことになろう。結果として日本人は正しく堕ちようという安吾の言葉に耳を貸さず、昔通りの生き方を続けることを選んだ。それでどうなったかというのは、ここで今更語ることもないだろう。問題なのは、こうした社会的な欺瞞がはびこる現代において若年層を中心に無気力感が蔓延しているということではないか。ただ、安吾が言うように、どんな社会においてもその制度からこぼれ落ちる人間がいることも確かである。(98.6.19)

  28. エゴイズム小論

    発表誌未詳。評論集『欲望について』に収録。本文末尾に1946年の記載がある。

     パソコン通信や、インターネットの世界というのはちょっと変わっている。その中で情報のやり取りをしていながら、情報を提供する側が時間とお金を使っている。普通に考えると、情報を入手する方にお金が必要なのは当然であり、親身になって調べてあげた方にどうして対価が行かないのかと不思議に思う向きもあろう。現実には誰でもネットワークにつないだだけお金を払わなければならないのだ。
     そんな事情もあるのかも知れないが、答えてあげたとおっしゃる人達の中には、「せっかく答えてあげたのにお礼の一言もない。こんな人はネットワーク通信をやる資格はない。こんなことが続くようでは、私はもう回答をしない」と、わざわざ大勢の見ているところで書き込んだりする人がいる。私に言わせてもらえば、こんな人こそネットワーク通信をやる資格がないのである。
     これは伝統的なことだろうが、パソコンに関することは、さまざまな個人的善意の上に乗っ取って発展してきた部分が多い。数多くのフリーソフトは言わずもがな、インターネットだって特別に料金がかかるというところはあまりない。ここの掲示板も無料で貸していただいているしこうした流れがこのまま続いて欲しいと思っている。だが、こうした仕組みが崩れ、フリーソフトをダウンロードする時やデータをホームページから取ってくる時に強制的にメールを書かなければならなくなったらどうだろう。強制的にお礼のメールをもらっても私は嬉しくないし、むしろ来ない方が気楽でいい。返事が来ないと文句を言うようなら、初めから参加しない方がいいのではないか。それこそが、安吾がこの文章の中で書いている「赤ずきん」の論理であるのだ。(98.6.19)

  29. 恋をしに行く

    1947(昭和22)年1月1日発行の『新潮』に発表。

     『女体』につづくと最初にあるが、登場人物はそのままでストーリーが展開されている。しかし、男性のお喋りというのは醜悪だというのが読んでの感想だ。谷村夫妻のその後ということなら、夫のことを書くよりも妻のその後を書いた方が良かったのではないか。そんな風に思えてしまうのは、小説の中でであってもついこう言うことを安吾は言って女性を口説いていたのではという下賎な勘ぐりを読んでいるこちらがしてしまうからである。(98.6.19)

  30. 風と光と二十の私と

    1947(昭和22)年1月1日発行の『文芸』に発表。

     自分自身のことを考えてみると、二十歳の頃というのは、もっとギラギラしていたような気がする。ここで回想している安吾は、同じ二十歳でも何という違いであろうか。文中にも安吾が書いているが、「老成」そのものである。
     確かに「老成」していなければ子供に説教なんていうのはできないかもしれない。説教ははたで聞いていると恥ずかしいものである。そもそもその説教通りに自分の身を慎むことができるのか。そんな風に思ってしまうような場面をこれまで幾度となく見てきているからなおさらである。
     もしかしたら、安吾が坊主になれなかったのは、この辺に原因があったのかもしれない。(98.6.21)

  31. 私は海をだきしめてゐたい

    1947(昭和22)年1月1日発行の『婦人画報』に発表。

     キャラクターの設定が「戦争と一人の女」そのままでストーリーが展開するが、前作の男性側からの書き方で比べると格段に良くなっている。これは「続・戦争と一人の女」として、女性の一人称で書いたことと無関係ではないだろう。孤独な人間の実相を感じながら、自らは肉慾の海に溺れる。こういった話は、女性から見ると男性の身勝手と感じられるかもしれない。でも男の欲望というのは尽きることがないのだ。だから安吾は「海」という途方もなく大きいたとえを使ったのである。(98.6.23)

  32. 道鏡

    1947(昭和22)年1月1日発行の『改造』に発表。

     安吾の歴史小説の魅力は、しっかりとしたキャラクターの立て方にあると思う。この人物はこういう奴だとやるわけだが、この性格というのがちょっと一般的ではない場合が多いのだ。しかし、歴史的に抑えるところはちゃんと抑えてある。特に孝謙天皇の女帝としての立場を、それ以前の女帝とはまるで違うのだと説明する導入部分はすばらしい。語り口のうまさというものもあって、読んでいくこちらとしては、本当にこうだったのではないかと思えてきたりする。
     道鏡という僧は、自分で天皇になろうとしたあくどい僧の代名詞として記憶してきたが、安吾の手に掛かると全く印象が違う。仏教には長けているが世間知らずで回りにいいようにあしらわれる、人が良すぎて哀れな男という感じがしてくる。道鏡は恐らく妖怪ではなかったのだろう。でなければ、失脚した後も生きながらえさせるはずはないのだから。(98.6.23)

  33. 家康

    1947(昭和22)年1月1日発行の『新世代』に発表。

     ここでの家康も、まず狸オヤジという世間の風評を疑うことから始めている。関ヶ原以降に性格が変わったという指摘はなかなか鋭いもので、隆慶一郎氏に「影武者・徳川家康」という作品があるが、まさにこの安吾史観を受け継いでいるかのような物語である。現代に生きていたら平凡な男で、また大将の家に生まれず、一兵卒の家に生まれていたら、戦場で発狂するほど気の小さい男だと言われると、案外そんなものかもしれないと思えてくる。足軽から天下人となった秀吉との対比というのも面白いが、安吾は残念ながら家康についてはこれ以外まとまったものを書いていない。平凡な偉人というものは、あまり好きではなかったということか。(98.6.26)

  34. 母の上京

    1947(昭和22)年1月1日発行の『人間』に発表。

     人間、いくつになっても母の前に出てしまえば単なる息子になってしまう。四十になっても遊びほうけている夏川にしても例外ではない。人は大人になり様々な弱みを隠す術を会得するが、母や家族の前ではその術も全く効かなくなり、丸裸になってしまうのだ。最後の部分、夏川がとうとう観念して母と会う際に、前日飲んでいて身ぐるみ剥がされ、本当に素っ裸で母との面会をすると言うのは少々出来すぎているような気もするが、読んでいる側としてはいくらか救われた気分になる。個性的な登場人物で、倒錯した性を持つヒロシの存在がなければ、この話はもっと暗く重たいものになってしまっただろう。深刻な問題を提示しながらある部分は「笑い」でもってごまかす。こういうことをするので、安吾に拒絶反応を示す人達が出るのだろう。(98.6.26)

  35. 戯作者文学論

    1947(昭和22)年1月1日発行の『近代文学』に発表。

     この日記に書かれたままに安吾が考えていたとは思わないが、今回この時期に書かれた文章と一緒に読んでみると、新たな発見があったことも事実である。どの仕事をどう言う感じで受けていたか、そしてどんなものを書いたのかということもわかる。これが今回の全集を読む上でのメリットだろう。
     それから、安吾のこの時期の交友関係が記されているというのも興味深い。何と、アナキスト詩人の岡本潤と飲みに行く約束をしていたというのは興味ある発見の一つである。共産党はあまり好きでないようだが、アナキズムには一脈通じるものがあったのかもしれない。小説「女体」の中には、それこそ岡本という登場人物がでてくるが、品格のなさというのは置いておくとして、まさしく無頼で放蕩した芸術家という感じで描かれている。
     また、日記の中に出てくるエピソードで、作家志望の人間が原稿を見せに来たことについて安吾が書いている部分について、最後に触れておきたい。独りよがりで、常に自分の書くものが最高だと思う。さらに他人の書いたものは一切読もうとしない。これは、現代の小説新人賞に応募しては無残に惨敗を繰り返す大多数の人々と同じではないか。文学賞の呼び選考委員を務める江中直紀さんは、「まともに検討に値するのは千編のうち一割か二割である」という。安吾も検討に値しない原稿を前にして、さぞ困ったのではあるまいか。(98.6.27)

  36. 通俗と変貌と

    1947(昭和22)年1月1日発行の『書評』に発表。

     読み物と文学という区別ははっきりとせねばならないと安吾は言う。例えば移動中に時間つぶしとして読むのに都合のよい本もあれば、誰にも邪魔されずしんみりと読んでみたい本もある。読み手の都合ということもあるものの、やはり書き手がいい加減に書いたものは単なる読み物としても読まれないものだ。これは文学の話ではないが、児童漫画と呼ばれる子供向けの漫画においては、こうした傾向は顕著である。例の読者アンケートという奴だ。作者の方でちょっとでも手を抜こうものなら、すぐにアンケートの結果に影響が出る。そうした仕組みに乗っ取って現在の漫画のレベルが保たれているのだろう。最近増えてきたテレビや映画の原作にもなる漫画の多さは、こうした厳しさが支えているのだ。(98.6.28)

  37. 花田清輝論

    1947(昭和22)年1月1日発行の『新小説』に発表。

     自分が敬愛する人を議論でやっつけるというのは、自分の議論に責任を持っていることの証である。お互いに知らぬ間柄ではないのだから、途中で放り出してしまうことが出来ないからだ。逆に、自分の匿名をいいことに、言いたいことだけ言って、言いっぱなしのまま逃げてしまう人には、私はネットワーク社会の中で、数多くお目にかかっている。だいたい、自分に気に入らないことがあるからそんなことをするのだろうが、まさに言葉の暴力、みっともないことおびただしい。花田清輝氏は、それどころでない本当の暴力にも言論でもって立ち向かったということである。最近はその種の議論が始まると、つい黙殺してしまっているのだが、たまには一暴れするのもいいかもしれない(^^;)。(98.6.30)

  38. 模範少年に疑義あり

    1947(昭和22)年1月1日発行の『青年文化』に発表。

     規律を守って号令通りに動くということは、逆に言うと号令がなかったり、起立に当てはまらない突発的な事象にぶちあたった場合には、全く役に立たないということだ。安吾はそんな体験からこの文章を書いた。安吾は戦争の防火について書いたが、現代でもよく行われる地震に備えての防災訓練でも話は同じことだ。訓練通りに実際の災害は起こりっこないのだから、全体訓練的な防災訓練が本当に役に立つのか疑問だ。必要なのは号令に柔順に従う大衆を作るよりも、自分自身で判断し行動を起こせる個人なのだ。阪神淡路大震災を教訓にしてのボランティア育成が盛んに行われているようだが、まず、今予定されていることがすべてダメになった場合どうするのか考えられる人を育成するようなことをしていかないととっさの役には立たないだろう。(98.6.30)

  39. ぐうたら戦記

    1947(昭和22)年1月1日発行の『文化展望』に発表。

     戦争が始まった瞬間、すぐさま自らの破滅を悟るというのは当時の状況から見ると、非国民も甚だしいところである。しかし、冷静になって考えてみるとアメリカに勝てるという見込みからして甘く、諦めの境地に入ってしまった安吾の態度は冷静に考えればごく当たり前の思考の結果である。ぐうたらと安吾は書いているが、幾分か韜晦の様子が見え、覚悟あってのぐうたらな生活であったのだろう。(98.6.30)

  40. 未来のために

    1947(昭和22)年1月20日発行の『読売新聞』に発表。

     未来のことというと、私などはついSFという言葉を連想してしまうのだが、月世界旅行、テレビ、ロボットの実用と、空想の中の世界が現実のものになっているというのは驚異である。社会を変えていくには時には大きな空想が必要で、政治家の政策というものはあくまで現実の世界に属しているものであるから、空想の壮大さから比べるとつまらないものであり、退屈でしかない。未来を変えていくということは、本来自由な空想が許される文学の仕事であり、そこに文学の存在意義というのもあるのだ。(98.6.30)

  41. 二流の人

    1947(昭和22)年1月30日「中編小説新書」(九州書房)に発表。

     改めて読んだところ、ちょっと読みにくい。というのも、黒田如水が主人公でありながら、その書き方が如水に一貫していず、語り口がいろんな人物に飛びすぎているためである。しかし、一通り安吾の時代小説を読むと、いろんなエッセンスが感じとれて興味深くはある。如水という人は、少しずつ運がなかった。才能さえあれば必ず成功するというのは甚だ疑問で、世渡りの才も必要だし、時期的なこともある。ただ、天才はつい余計なことも得意げに喋ってしまうもので、天才に共通する悲劇というのは、こんな所から始まるのだろうかとしみじみと思った。(98.6.30)

  42. 二合五勺に関する愛国的考察

    1947(昭和22)年2月1日発行の『女性改造』に発表。

     歴史上の人物と私たちが向かい合うとき、どうしてもその伝説化された人物像を思い浮かべてしまう。しかし、彼らも人間に過ぎず、聖人君子ではないのだということは、私が安吾から教わったことの一つである。社会や制度は変わっても、人間そのものは変わらない。そんなことがわかってくるにつけ、昔の本を読むのが楽しくなった。安吾が歴史の本を好んで読んだこともよくわかる。
     現実の事象と対比させながら、一生懸命に大衆にわかりやすいアジテーションをする。文学者というよりも、社会運動家の書いたような一文である。(98.6.30)

  43. 反スタイルの記

    1947(昭和22)年2月6・7日発行の『東京新聞』に発表。

     しかし、この時期ではそうでもないだろうが、現在読むと過激な文章である。執筆スケジュールを消化するために、覚醒剤を使用していることを新聞記事で公表しているのだから。今なら、覚醒剤を使うのは人間にあるまじき行為だと世間が全てバッシングに入り、作家の命は風前の灯火。しかし覚醒剤抜きで書いた文章は面白くもなんともなく、哀れ坂口安吾は失意の日々を送るという調子になるのかもしれない。
     安吾に覚醒剤の使用がなかったら、その作品はつまらないものになっていただろうか。これは、一昔前の音楽家にも言えることだが、少なくともこれだけの膨大な作品は残さなかったに違いない。私は作家に素行の良さを求めているのではない。どうあろうと面白いものを書いてくれればそれでいい。スタイルがどうこうというのは、そんなわけであんまり意味をなさない。(98.6.30)

  44. 日映の思い出

    1947(昭和22)年2月10日発行の『キネマ旬報』に発表。

     日本映画社での安吾は、だらだらと仕事をサボタージュしていたと他の随筆で読んだ記憶もあるが、なぜ情熱的に仕事が出来なったのか、言い訳のような文章である。当時は映画会社にも労働争議が発生していたから、社長に対して押しの弱さを批判している安吾も、度重なる紛争にうんざりしていたのかも知れない。(98.6.30)


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