★0001.すでに滅びることが決定した言葉(2001.2.23)
新しい三省堂国語辞典は、カタカナ語の新規採用が数多く見受けられますが、残念ながら今回掲載されても、次回の改訂には載らないだろうと考えられる言葉を最初に発見してしまいました。それはとりもなおさず、インターネット関連の言葉で、現時点で私もお世話になっている「アイエスディーエヌ[ISDN]」(2ページ)なのですね。
前回の改訂の時には、まだ一部の人しか利用していなかったものが、ここのところのインターネット普及に伴って一気に広がってきたのですが、今後ADSLや光ファイバー線の普及が加速し、当のNTTがISDNでなくADSLや光ファイバーにシフトしていくと言うことを明言しています。しかし、辞典を編集しているときにはここまでの流れは予想できなかったはずで、編集作業の難しさというのをひしひしと感じてしまうというのが正直なところです。それにしても、発売した当初から死んでいく言葉を見つけてしまうとは、何かもの悲しいものがあります。
★0002.カタカナ語をカタカナで説明?(2001.2.24)
やはりというかコンピューター関連の用語が多数掲載されている第五版ですが、その説明には苦労しているようです。アイコン(2ページ)の説明では、『コンピューターを操作するためのコマンドを……』と、またカタカナ語が出てきてしまっています。まあコンピューターという言葉は市民権を持っていますからいいとしても、『コマンド』という言葉は二度引きが必要ではないでしょうか。機械に疎い人だと、戦士がコンピューターを操作するのかと誤解してしまわないとも限りませんし(^^;)。初心者がパソコン本体やソフト関連のマニュアルを読んでいてつまずくのがこういうカタカナ語の部分であるのは承知の通りですが、だからこそ今回の説明にはなるべく二度引きが必要ない形で載せてほしかったというのはありますね。
★0003.都会で就職は「Iターン」? (2001.2.24)
インターネットによるネットワークが発達してくると、必ずしも大都市に出勤して仕事をしなくてもいいという場合も考えられます。在宅勤務というのもそうですが、そうではなく、脱都会化ということになると今後の就職体型も変わってくるという気もします。そういう中で生まれてきた言葉が「Iターン」(4ページ)という言葉ですが、第五版の説明を読んでちょっと不可解に思えました。説明では単に『自分の故郷と関係ない土地で職に就くこと』としか説明されていません。自分の故郷から出発し、大都市を目指して一直線の「I」でもいい、なんてことではないですよね。
★0004.「アイデア」か「アイディア」か (2001.2.24)
英語をカタカナ表記するということになると必ずこうした問題が起こります。今回注目したことは、以前の版の見出しには「アイディア」(4ページ)のみ学習重要語の印がついて載っていたものが、今回の改訂で見出しに二つの言葉が載り、なんと「アイデア」(4ページ)の方に説明が付くようになりました。まさに二つの言葉の関係は逆転してしまったのです。
確かに(idea)を発音する場合、日本のローマ字読みにすると「アイデア」の方が近そうです。しかし多少でも厳密に表現しようとした場合には「アイディア」に軍配が上がりそうな気が。ただ、この辞書で日本語を勉強する人たちにとって見ると「アイデア」としたほうが例外的でなくて(iはアイ、deはデ、aはア)わかりやすいとも言えます。
まだそうした用例のすべてを見ているわけではないので、徐々にこうした用例を抜き出していこうと思っていますが、個人的にはこうした試みは評価できると思います。
★0005.加害者意識のない差別表現の訂正 (2001.2.25)
もともとこの三省堂国語辞典は、主幹の見坊豪紀氏が立ち上げたものですが、元を正せば氏が昭和18年に完成させた『明解国語辞典』がそもそもの始まりだということです。昭和18年の辞書というのはどんな言葉が載っているのか興味津々ですが、今回こういうコラムを載せるのを機に、復刻版として三省堂から出版されているのを注文してきてしまいました(^^)。改めて語句の説明比較などをやってみたいですが、現状で私が持っているのは三省堂国語辞典の第三版からです。
で、ここで引っかかったのが「アイヌ」(4ページ)という言葉。第五版では『現在、北海道に住む日本の先住民族』と当たり障りのない説明になっていますが、第四版では『北海道・サハリンに住む日本の先住民族。蝦夷(えぞ)』となっています。その昔アイヌの人たちのことを土人(この言葉はなぜか最新の日本語変換ソフトでも出ません。その辺も問題だと思うのですが)と呼んでいた歴史がありますが、『蝦夷』というのは蔑称ですから、その辺の配慮があったのかもしれません。また、サハリン云々というのを削除したのはロシアへの気兼ねでしょうか。こうした辞書の世界においても多分に政治的配慮が見られるといういい例かもしれません。
時間の経過によって使うことを封印してしまう言葉というのは、確かに存在します。逆に言うと、過去の辞書を読んでいくことで、その当時ある言葉(ここではアイヌですが)に対してどのような理解がされていたかということを読みとることができます。参考までに第三版の説明書きも紹介しておきます。『北海道・カラフトに住む民族。顔のほりが深くて毛が濃(コ)い』とありますので、まだその頃は(1982年)偏見もあったし日本の先住民族と必ずしも一般に認められていたわけではないということがわかります。
(追記.2001.2.26)たまたま職場で三省堂国語辞典の第一版(1970年記念発行で内容は新装版に準ずるとありました)を発見しました。で、アイヌの項目を引いてみますと『北海道・カラフトに住む、毛深い民族。日本の原住民族の一つ』とありました。原住民族であって先住民族ではないのですね。このように時代とともに変わっていく社会を映す鏡という役割を辞書は持っているという事ですね。できたらまだ入手していない第二版も手に入れて、じっくり読み比べをしてみたいものです。
★0006.「新解」さんばりに、辞書に人格を見る(2000.2.27)
「新解」さんとは、「新明解国語辞典」のことで、あまりに主観的に語句を説明するので、辞書の中に人格を見てしまうという赤瀬川原平さんの著した『新解さんの謎』という本から多くの人に知られるようになりました。三省堂国語辞典は、こうしたある意味では独善的とも思える語句解釈の世界から分かれたものであるため、なかなか人格というのは見つけにくいものですが、同じページに出ていた語句二つの説明の差は、この辞書にも人格があると感じさせるには十分なものでした。
まず「青柳」(7ページ)にはすしネタとしての説明が普通に書かれています。『ばか貝のむき身。すしに使う』これはまあ一般的で、別にどうということはありません。個人的にはこういう簡潔で感情を廃した説明こそ、三省堂国語辞典の真骨頂だと思っているのですが、このページの最後の項目である「赤貝」(7ページ)の説明はちょっと違います。説明だけでなくそこには確かに人格が存在します。『海で取れる貝の名。肉は赤くてうまい』と、つい「うまい」という言葉が出てしまいました(^^)。個人的には青柳も十分おいしいと思うのですが、特に同じページに出ているものだけに、この向こうでどういう論議が行われたのか、それとも行われないまま活字になってしまったのか非常に興味があります。といっても、この記述は前の版から変わっていないので、もしかしたら見坊さん(三省堂国語辞典編集主幹)の大好物だったのかしらんと思ってしまったのですが。
しみじみ思うのは、主観的な言葉というのは、辞書で使うのには結構勇気がいるということですね。そういう意味では新明解国語辞典というのはものすごい冒険的な辞書で、よく教育現場から文句が出なかったなと思うのですが。
★0007.生きた化石言葉その1(2001.2.28)
今回の改訂ではカタカナ語を中心に収録単語も増えていますが、第四版のページ数が1333(最後の【ん】の項目まで)に対し、第五版は1432となっています。一気に100ページも増えたということなのですが、それでも使われなくなった言葉を削除する作業というのは必要です。発売直後の新聞で消えた言葉の代表としてあげられたのが、学生の隠語としての「A」「B」「C」。「A」はキスで……というやつ(^^;)。そうなると自殺して亡くなった沖田浩之さんの「E気持」なんて曲はもはや実際の状況で使われることがないということですね。時代の流れを感じるなあ(^^)。で、ここではそのようなもはや生活の中で使われないのではないかと思われるのに、未だしぶとく辞書に残っているというその名も『生きた化石言葉』を収録していきます。
まず最初に登場願うのは「あかゲット」(8ページ)。ポケモンをゲットするのではありません(^^;)。ゲットはブランケット(毛布)のことで、明治時代に赤い毛布を外套代わりに羽織って都会見物にきた田舎者がいたということで、そうした人そのものや、西洋の風俗習慣に慣れていない旅行者のことを指すとのこと。明治の風俗から出てきたということで歴史もあり、しかも現在は使われていなさそうで、生きた化石言葉として最初に取り上げるのにふさわしい言葉なのではないでしょうか。しかし、この辞書は数多くの用例収集に基づいていますから、まだどこかで使われているのかもしれませんね。もしそうした事例があるようでしたら指摘していただければうれしいです。
★0008.何を今更(2001.3.1)
見出し語を選定するのは読んでいると特に大変な作業であることが想像でき、どうしてこの単語が落ちているのだろうと思うこともしばしば。しかし、今回紹介したい例は、そろそろ絶滅するのではと言う言葉が突如として登場したという(^^)。
その言葉とは「赤帽」(9ページ)です。他の辞書にはかなり前の版でも載っている言葉ですが、三省堂国語辞典にはなぜか載っていませんでした。それが第五版からなぜか新規項目として選定されました。『赤い色の帽子』という最初の説明はいいとして、問題になるのは二番目の説明についてです。『駅で旅客の手荷物を運ぶ職業の人。ポーター。[赤い帽子をかぶる]』こうした職業は果たして今、どれくらい全国で行っている人がいるでしょうか。言葉というものは残酷なもので、同じ赤がつくものでいうと「赤電話」が今回の版から落とされています。赤電話は消滅し、赤帽が新規採用。確かにポーターということで、軽自動車を使った運送業の人をこう呼ぶことがあります。新規採用するのなら、こうした時代の流れで鉄道から自動車文化へと活躍の場を移していった赤帽についても一言説明がほしかったような気がします。
(追記 2001.3.21)この日付の朝日新聞で、東京駅にいる赤帽さん4名がこの3月をもって営業をやめるとのニュースが入ってきました。記事の内容を読むと、赤帽さんはJRの職員ではないとのこと。安定した報酬も、労働災害の補償も、全く受けられないということで新しいなり手がなかったと付け加えられていました。
こんなニュースを聞くと、ますます上記の意味での「赤帽」の使われ方がなくなっていくという感じがします。果たして次回の改訂時には、この職業を行っている人たちは残っているのでしょうか。
★0009.誤り? の訂正(2001.3.4)
辞書が間違っているということは、信用問題です。ただ、時の流れによって使われ方が限定され、当時に載せた意味ではほとんど使われなくなってしまった故、説明がどうもおかしいという状況は存在するかもしれません。
「アクアリウム」(11ページ)は「aquarium」と書き、水族館の意味ですが、第五版の説明には『熱帯魚などを飼う水槽』とあります。果たして前の版にはこの言葉自体が載っているのだろうかと思いつつひもといてみたら、ちゃんと載っていまして、同じ説明の後括弧書きで次のような説明文が加えられていました。
(の{注・水槽のこと}中に入れる、水草や小石など)
この言葉は第三版には掲載されていませんから、第四版が出始めの頃なのだと思いますが、その頃にはいろんな使われ方があり、現場も混乱していたのではないかと思われます。おそらくこういう言葉は意味や使われ方がしっかり固まるまで、観察の対象になっていたのでしょうね。
★0010.悪妻論 (2001.3.4)
まさに私のページで紹介している坂口安吾に同名のエッセイがあります。ちなみに反対語である「良妻」(1385ページ)には『よい つま。』としか書いてありません(^^)。その裏返しで考えると、単に悪い妻と載っていそうな「悪妻」(11ページ)ですが、そうは書いていないのです。
『おっとに尽くすことをしないつま。』
別に私はフェミニストではありませんが、この定義からいうと『良妻』は夫に尽くす妻ということになってしまいます。ソクラテスやモーツアルトの妻ということでもあるまいし、未だ歴史を引きずりすぎ、対象を限定しすぎという感じがしますね。坂口安吾ほどの定義でなくてもいいですが、複数の説明を付けるとか、見直しが必要なのではないでしょうか。ところで、それに関連して「悪女」(11ページ)という項目がありますが、これはぎりぎりでしょうね(^^;)。冷徹に説明しているようで、結構気にしている人は傷つけるのではと思わせるものがあります。個人的には三番目の説明、『善良な女というわくからはずれた女』というのがすごいですね(^^)。逆にそういう女の人は男性にとっては非常に魅力的なのかもしれませんが。
★0011.秘密本部(2001.3.5)
こう定義づけられる言葉は、元はロシア語なんですね(^^;)。「アジト」(17ページ)という言葉は主に『左翼運動者などの』秘密本部なのだそうです。今の世の中、左翼運動よりもカルト宗教の方で警察の大規模な捜索が入ったりして、アジトは左翼運動だけのものではなくなったという。思えば時代も変わったものです。
ただ、こうした政治活動としてのアジトの他に、特に『秘密』の方に重きを置いて、隠れた楽しみを行う場所という意味でこの言葉を使っている場合もありますね。でも、愛人を置いておく隠し宿のようなものは「アジト」とは言わない。そうでなくて、同行の士が集まり、遊びに行く相談をする場なんてのは「アジト」という呼び方をするように私には感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。このように「アジト」という言葉には、子供の頃の秘密基地のような、ワクワクする側面が隠れていることも確かです。だから別に『秘密本部』という説明でもいいのですが、今の時代左翼運動者だけにこの言葉を当てはめなくてもいいような気がします。
★0012.誤用の説明(2001.3.7)
辞書の効用の一つは、普段何気なく使っている言葉の使い方をただしてくれるところです。いわゆる『ら抜き』言葉は長い間誤用と言うことで多くの辞書は掲載を見送ってきましたが、これだけ使われるようになると用例として載せないわけには行かないでしょう。しかし、言葉には語源というものがあり、そうした歴史を全く加味しないで言葉を使ってしまうというのは寂しいものがあります。その原因というのが今書いているようなパソコンでの変換処理で出たまま使ってしまう私たちの姿勢にあります。
最初から読んでいて、初めて出てきた誤用の例が「徒」(19ページ)の説明の中にありました。それによると、『期待したとおりにものごとがはこばないこと』の意味で使う場合、「親切が徒になる」という使い方はいいものの、「不勉強が徒になる」という使い方はその意味合いにおいて誤用と言うことですね。ちなみに、私の使っているATOK14では一発で「不勉強が……」の方も変換できてしまいました(^^;)。最近の日本語変換ソフトでは誤用についていちいち指摘してくる場合もありますが、やはりそれが絶対ではありません。私も完全に表現できているわけではないのですが、不安があるものについては面倒でも辞書のページをめくり、確かめてからアップするように心がけたいものです。
★0013.スポーツ・ゲームの認知度と学習用辞書の限界(2001.3.8)
辞書の説明を読んでいくと、特にたくさんの意味を持つ言葉に多いのですが、非常に限定された場面での使い方まで丁寧に説明されているのに気がつきます。そのいい例が「当たり」(21ページ)です。今回の改訂では新たに『[ラグビーで](ゴールポストに向かって)ボールをけること』という説明が新たに付け加えられました。以前と比べればテレビで見るスポーツとしてのラグビーの市民権が実証されたような形です。ここで皆さん、当たりという言葉を聞いて何を連想されるか。宝くじやクイズは当然ですが、私などはパチンコや麻雀での「当たり」という言葉をまず連想してしまいます(^^;)。しかし、これらの用例は残念ながら掲載されていないのです。ちなみに同じゲームでも囲碁の「当たり」(もう一手打てば相手の石が取れる状態)は掲載されています。
それはこの辞書が『学習用』であることと大いに関係があるのではと思います。本当はお金を賭けたり、景品を金銭に交換してはいけない(^^;)遊技ですが、実質的には賭け事として金銭のやりとりがあることは周知の事実です。生徒が学習するにはふさわしくないという立場なら不掲載も納得できます。
見坊豪紀氏(三省堂国語辞典・編集主幹)のエッセイ『女=妊娠する能力のあるもの』(昭和三十九年二月・「国語教育」掲載)によると、
(ここから)
『三省堂国語辞典』ははっきり学習用をねらっている。したがって小中学生が「学習」する必要のない、ある種の見出し語を削除し、ある種の語義をぼかすべきである、というのがわれわれの、学習辞書に対する基本的な考えの一つである。
(ここまで)
逆にいうと、研究用として使う場合にはこうした配慮がマイナスに働くこともあり得るということです。その限界をカバーするものとして別の辞書を見ることも必要になるかもしれません。こうしてみると、辞書の世界というのは非常に奥が深いですね。
★0014.クイズみたいですが(2001.3.10)
その昔、小学生の頃「反対語」というものをよく学習させられました。例えば「熱い」の反対は「熱くない」ではなくて(^^;)、「冷たい」ですね。同音異義語の「暑い」の反対は「寒い」、「厚い」の反対は「薄い」というようなことです。
では、ここで問題です。「熱燗」(23ページ)の反対は何という言葉でしょう。「熱くない燗」でないのはもちろんですが(^^;)、「冷や(酒)」でもありません。上記の「熱い」の反対が「冷たい」ということを考えると、おかしな気がしますが、実際に熱くない燗が言葉として存在するので、こういう定義になっているという事なのでしょう。
正解は「ぬるかん(温燗)」(963ページ)です。「熱」という言葉に「燗」という言葉がくっついただけで反対語も変化してしまう。ここら辺は実にデリケートなところです。また、直後に出てくる「圧縮」(23ページ)ですが、今回の版からパソコンのファイルを圧縮するというような使い方も載るようになりました。この場合の反対語は何でしょうか。ここでは「展開」だけがありましたが、個人的には「解凍」の方が一般的に使われているような気がします(ちなみに、「解凍」の項には説明あり)。重ね重ね辞書にはどの言葉を乗せるか選定するのは難しいですね。
★0015.書き言葉にも光を(2001.3.12)
今回の改訂の目玉の一つに、文字の表記の仕方で、その目安を提供したということがあります。言葉に(○○)のように括弧の表記があるときは、その部分を無理して漢字で書かなくてもいいというものです。「やはり」を「矢張り」とか、こういう書き方は文学作品には使われていても、普通に文章を書くときには使いませんからね。
こういう記号の他に、わざわざ文章で説明しているものもあります。「当て」(24ページ)の新しく掲載された意味として、『[方]酒のつまみ。』というのが新たに加わりましたが([方]とは[方言]の意)、この意味で使う場合は表記する場合「当て」と漢字を使わずに、仮名で書くとなっています。
特に、こうしてパソコンのキーボードで日本語を打ち込む場合、無意識に漢字を多用してしまい、文章自体が小難しくなってしまうというようなことは結構あることです。多くの人に読んでもらえる文章ということを考えると、極力漢字を使わずに、仮名を多用するということは大切なことではないでしょうか。
言葉というものは絶対ではなく、誤用がそのまま使われているうちに普通に通用してしまうということはありますが、わざわざ難しいものを難しくやり続けることもないのです。全面的に辞書を信頼することもないと思いますが、ワープロで書いた文章を推敲するときに結構役に立つ、辞書の効用ではないかという感じはします。
★0016.21世紀の言葉も迷走する(2001.3.15)
実際に21世紀になってから初めての三省堂国語辞典が第五版なのですが、その昔、人々は21世紀の世界に大いなる希望を込めていたということをつい思い出してしまいました。未来社会というのはSF(空想科学小説)の得意分野ですが、その象徴として語られるのが小説ではなく漫画の『鉄腕アトム』というのは異論のないところではないでしょうか。
現在の日本のロボット工学がこれだけ発達したのも、アトムをはじめとする数々のロボットが登場する漫画やアニメが数多く作られたからだと思いますし、この言葉「アトム」(26ページ)が今まで掲載がなかったというのが不思議なくらいです。
しかし、この言葉の意味はというと、当然のことながら『原子』と一言あることでひどくあっけないのですね。でも、「アトム」という言葉をロボットのアトムとしか理解していない人たちにとっては、辞書を引いて初めてその意味を知るということもあるかもしれません。ただ、原子力で動くアトムというのは、現実には20世紀の遺物として排除される可能性も考えられます。原子力エネルギーの利用とともにアトムの立場はどうなっていくか、今後も継続して追いかけていきたいテーマです。
★0017.「遊園地の遊具」では古い(2001.3.17)
遊園地という言葉自体が古い言葉なのかもしれません。今は「テーマパーク」(840ページ)という言葉が一般的なのでしょうか。これは和製洋語だそうで、説明では『あるテーマにもとづいて、全体を構成する、大規模な娯楽施設』とのこと。東京ディズニーランドはディズニーに関するテーマパーク、ユニバーサルスタジオジャパンはいうまでもありませんね。そういう規定からすると、動物園などは立派なテーマパークですが、そんな風にとらえる人がどのくらいいるか。一般的に言って、特定のテーマを前面に押し出した施設というのは例外なく経営の危機にさらされている気がします。個人的には単なる娯楽にテーマを与えること自体が無理があるような気もするのですが、それは今後の各テーマパークがどのようになっていくかによって評価は変わってくるでしょう。
さて、そうしたテーマパークにある様々な施設のことを何と言うでしょうか。これは割と新しい使い方だと思うのですが、「アトラクション」(26ページ)という呼び方が一般的であるように思います。残念ながら今回の版においてもそこまでの突っ込んだ説明はされていません。第五版では『客寄せのために、中心となるもよおしにそえてみせる、演芸や人気俳優のあいさつなど』となっています。注目すべきはここでの説明はハードではなくソフトとしての場合のみでアトラクションを捉えていることです。逆に言うと「遊具」(1327ページ)というには大規模な娯楽施設について、表現する適切な言葉がないということでしょう。まさに必要あらば同じ言葉でも新しく意味を持たせてしまうという力技を私たちは見ることができます。
★0018.「終結」と「廃止」の違い(2001.3.21)
前の版、つまり第四版の発行年月日は一九九二年です。そこで現代史に関わる語句を説明する場合、その表現の仕方に慎重を期さなければならないというのは辞書づくりにとって当然のことでしょう。本題に入る前に、表題としてあげた「終結」(557ページ)と「廃止」(992ページ)の違いを検討してみましょう。「終結」は『あることがおわること。しめくくり。』で、「廃止」は『おこなわれてきたことを やめること』とあります。これだけでは今ひとつはっきりしませんね(^^)。
ニュアンスとしては、「終結」の方は火が消えたことは消えたが、まだ少しくすぶっているという感じで、「廃止」の方は完全に消火したとすればはっきりするでしょうか。実はこの表現は「アパルトヘイト」(28ページ)を説明するときに第四版と第五版での違いを表しているのでした。『一九九一年に○○』とあり、第四版が終結で、第五版が廃止となっています。南アフリカではまだまだ人種差別的な事件も起こっていますが、制度的に廃止となったことで、編者の方もほっと胸をなで下ろしているかもしれません。
★0019.辞書に載れば名物か(2001.3.23)
大きな駅に行くと、全国名産と書かれた土産物を売るスペースがありますが、この「名産」(1274ページ)とはどういうものでしょうか。ひもとけば『[その土地の]有名な産物』とありますが、この有名という文句がくせ者。どの程度一般に認知されているのかが重要であることに疑いの余地はないでしょう。
私の住んでいる静岡市の名産とは何でしょう。第五版から登場してしまったという感じのあるのが地元名産のお菓子(?)です。「安倍川餅」(30ページ)が全国的に認知されているというのは、逆に地元にいる側からすると新鮮な驚きでした。これは単に、餅にきな粉をまぶしたものに過ぎませんから、各地に同じようなものは多数存在し、呼び方も違うのだろうと思っていたのですが。
ちなみに、餅に関するものでは、赤福もずんだ餅も載っていません。赤福は登録商標ですが、ずんだ餅はそういうものでもなさそうなので、載せてもいいと思うのですが。お菓子ではありませんが「浅草のり」(15ページ)は『いちばんふつうののり』として載っているものの、この書き方では東京の名物という感じもしないし、ちょっと不思議です。辞書に認定された名物というのを抜き出すのも結構楽しいかもしれませんね。
★0020.生きた化石言葉その2(2001.3.28)
最近は格安航空チケットもインターネットから購入できるようになったとのこと。インターネットビジネスは大変ですが、こういうものなら結構需要はあるのではないでしょうか。週末にちょっと時間が空いたので、インターネットからチケットを探し、格安の料金でアメリカへなんてことも別に今では普通にありそうだし、珍しいことではないですよね。
そういう意味からすると「アメしょん」(33ページ)なんて言葉はもはや死語になりつつあります。というか使っている人はいるのでしょうか。『しょん←しょんべん(小便)』で(^^;)、ちょっと用足しにアメリカへ行って来たという無益なアメリカ旅行を嘲るような言葉ですから。
その昔は自由に海外旅行もできず、現地で利用できる通貨も制限されていましたから、意味もなくアメリカ旅行する人たちは本気で怒られていたということなのでしょう。逆に今は無益なものだらけということでもあるわけで。時代の変化とともに消えていきそうな言葉をまだまだ追いかけていきますよ。
★0021.現地読みか日本風読みか(2001.4.1)
こう書いて最初に思い出すのが別の言語にある固有名詞ですね。シーザーなのかカエサルなのか、綴りは同じでも日本語にすると全然別のものになってしまう場合もあります。また、人名の場合は特に日本語読みというのは日本だけでしか通用しないことが多いです。同じ漢字文化圏である中国や朝鮮半島の人名は特にテレビや新聞で出てきますが、日本語読みのままその人の名前を呼んだとしても、日本語の知識がその人になければ自分が呼ばれていることもわからないでしょう。
さらに問題があるのは、宗教が絡む場合ですね。「イエス」(48ページ)なのかイエズスなのか、はたまたジーザスなのかと言う問題ももちろんありますが、今回の改訂で目に付いたのはイスラム教の唯一神の説明を「アラー」(34ページ)ではなく、「アッラー」(24ページ)の方に載せたこと。かくいう私としてもアラビアンナイトの和訳の影響もあるのでしょうが、アラーの方が脳に染みついてしまっています。でもそれでは実際にイスラム教を信ずる人たちと話をした場合、下手をすると神を冒涜したと思われてしまう危険もあります。
こういうのも、今後どんどん起こって来るであろうボーダーレス社会を反映しての改訂であるでしょうか。ただ、そうした流れがあっても教える先生の脳にはやはり「アラー」が染みついているんですよね。
★0022.争うのは悪いのか(2001.4.11)
私が小学生の頃、運動会では一等になると『1』という文字が大きく記されたワッペンをもらうことができました。ただ、短距離走でも速い子は速い子同士、遅い子は遅い子同士ということで、ちょっと頑張れば3着までもらえるワッペンを獲得できるチャンスが広がります。それを目指して運動の苦手な子でも運動会の前は準備に余念がなくなるのですが、今の運動会はどうなのでしょう。
「争う」(35ページ)の最初の意味ですが第四版では『相手に勝とうとする。競争する』となっているのですが、今回の改訂で『相手より先になろうとする。競争する』となりました。ちなみに「勝つ」(220ページ)の説明は『相手・(敵)を負かす』とあります。勝つことを放棄した争いということなのでしょうか、見る人が見るとかなりトーンダウンした争いのように感じられるかもしれません。
こういう改訂の流れにあるのは、正面切って熱く争うことを奨励していないような(^^;)編者の意図というか何というか。一部の学校では運動会で着順をつけないそうですが、そういうものと関係があるのでしょうか。むろん、やみくもに勝とうとするのはいただけませんし、勝って何になるのかということもあります。でも、先になるということだけでは「争う」という言葉の深さを説明できないような感じがするのですが。
★0023.アラブから「民族」を考える(2001.4.19)
映画「アラビアのロレンス」で出てくるアラブの人たちというのは部族同士でいがみ合っていたという印象があります。そうした対立というのは、外から侵略しようとする人たちにとっては好都合で、日本の場合でも国内でのいがみ合いから外国の侵略を受けそうになったこともありました。「アラブ」(36ページ)とは何かというと想像しにくいということがありますので、日本民族ということならどうでしょう。「民族」(1256ページ)の説明は『同じ言語・宗教をもつ、[多くは]同じ人種の集まり』とあります。一見もっともなようですが、日本人という人種がいたのかということについてはどうでしょうか。日本については人種というにはアイヌあり、琉球あり、縄文あり弥生あり、さらには渡来系の人たちありと様々ですからもう一つの『同じ言語』ということが解決の鍵になりそうな感じもします。でも、在日韓国・朝鮮人の人たちも日本語をしゃべりますし、民族というものをきちんと定義することは非常に難しいことがわかります。
で、話はアラブに戻りますが、第五版の説明は『中東および北アフリカに住み、アラビア語を使っている人たち』とシンプルなものです。第四版からは『アラビア半島を中心に』『主として遊牧をしている』『イスラム教徒で』という語句がカットされています。今挙げた三項目というのは、はっきり言って私たちがアラブという言葉を聞いて浮かべるイメージであると思いますが、それをあえてカットしたところにどんな意味があるのでしょうか。
民族という言葉自体曖昧なものであるということは、言葉自体が定義しにくいことからわかることですが、人間は一人一人違うのに、その全体を民族としてくくってしまうことは不自然ではないかと思えてきます。日本人だからといって全員仏教徒でないように、アラブの人たちはみんな遊牧をしてイスラム教徒ではないですからね。
今世界各地で起こっているいわゆる民族紛争は、民族という鎧を付けて相手を違うものとして攻撃するということになってしまっています。イメージでひとくくりにして語らない、今回の改訂の持つ意味は意外に重要かもしれません。
★0024.生物辞典ではないにしても(2001.4.24)
普段日本語しか使っていないようでいて、結構たくさんの外国語を使っていると実感することができるのが国語辞書に載った外国語のカタカナ語を見つけたときです。今回採用されたのに「アリゲーター」(37ページ)があります。中学生に聞いたら「わに」(1426ページ)と答えるでしょうが、日本ではワニと一括りにしてしまうのですが、英語ではそうではないようですね。「わに」の欄に『アリゲーター・クロコダイルに大別される』とあります。では、アリゲーターと「クロコダイル」(350ページ)の違いとは何なのでしょうか。
「アリゲーター」の説明というのは非常に微妙です。『ワニの仲間の呼び名。ミシシッピワニとヨウスコウワニの二種は、皮が珍重される』とあります。ちなみに「クロコダイル」の方には『ワニの仲間の呼び名。世界中の熱帯地方にすむ。大形のナイルワニなどは人をおそう』とありました。念のためネットでひいてみた英和辞典ではストレートに、米国・中国のワニとありましたが、地域性だけでそうと簡単に定義してもいいのでしょうか。
そういう疑問を元に、インターネットをさまよっていたら割と説得力のある答えに突き当たりました。細く口のとがったのがクロコダイル科で、口先の丸いアリゲーター科ということだそう。さらに両者の違いはどこにあるかというと、もともと水温の安定した水中に住むアリゲーターに対して、陸生のクロコダイルは温度に敏感で、両者を比べると暑さに弱いとのこと。クロコダイルは気温の安定している熱帯地方で暮らしているから、そうそう体温調節をしなくともいいし、逆にアリゲーターは熱帯でない地方で生活しているため、できるだけ自分の体温が安定するように体の仕組みを変えていると想像できるわけです。
なんだか国語辞典の話からずいぶんはずれてしまいましたが、学習用の辞典をうたっているのなら、言葉の意味を知るために別の辞書を引かなければならないような説明の仕方にはいっこうあっても良さそうな感じがしますが。でもまあ、こうしてわからない言葉を調べていくのが結構面白かったりするのですが。
★0025.戦争への不安(2004.6.27)
ついこのコラムを放り出していて、3年も経ってしまいました。その後の世界情勢の変化というのは驚くほどで、東西冷戦が終結し、アメリカはいよいよ世界の盟主たらんとさまざまな紛争に介入してきたところで、あの9.11の自爆テロの被害に遭ってしまいました。
「ありせば」(38ページ)を使った例文として、「万一のことありせば」と第五版では書かれていますが、これがまだ東西陣営が冷戦状態にあったであろうころに書かれた第四版では「第三次世界大戦ありせば」という例文になっています。第五版の編者は、もう冷戦終結で世界は平和の方向へ行くのだという願いを込めて、あえて第三次世界大戦云々という表記を無くしたのかも知れませんが、今度は戦争というよりも、大規模なテロ(854ページ)の危険が生まれてしまいました。
ということで、次回の版では「テロありせば」なんて例文に変わるのかも知れませんね。ちなみに、テロというのは「テロリズム」「テロリスト」という方に説明書きがあり、単純に「暴力主義」とか「暴力行為」とか、「恐怖政治」ということでしか語られていません。これも学習辞書として、これ以上説明できない事情があるのでしょうが、単に暴力行為のみでテロが説明できれば、こんなに大きな問題となっていないことも事実でしょう。これはむしろ、辞書の問題ではなく、それを読み、考える私たちの方に突きつけられた問題なのかも知れません。
★0026.油虫とアブラムシ(2004.6.27)
時代の流れとともに、どういう言葉を使うかで世代がわかるような言葉があります。「コップ」(434ページ)なのか「グラス」(343ページ)なのか。ちなみに、「グラス」の意味の3番目に「コップ」がありますが、「コップ」の欄には「グラス」に関する記述がありませんので、元々コップという言い方がポピュラーだったものが、今ではグラスの方が一般化しているようにも取れますね。
で、表題の「油虫(アブラムシ)」ですが、この言葉を聞いてゴキブリを思い出すのか、それとも蟻のために甘い汁を出す「ありまき」(38ページ)を思い出すのか、これも世代間で違いが出てくるのではないでしょうか。
今回、この「ありまき」が新項目としていきなり出現したのですが、「ありまき」というのはアブラムシ料という分類でありまして、ゴキブリはアブラムシ料ではないのです。ゴキブリを油虫と呼ぶのはあくまで見てくれからの異称でありまして、今の時代では皆がゴキブリのことはゴキブリと呼んで嫌います。ですからここに、わざわざ「ありまき」という新項目を立てることによって、ゴキブリを表すかのような雰囲気の「油虫」)ではなく、昆虫の分類にのっとった「アブラムシ」の呼び方を浸透させようとした表れなのかも知れません。
★0027.「アンデパンダン賞」とは(2004.6.29)
「アンデパンダン」(43ページ)も第五版から採用された言葉ですが、これは英語ではなくフランス語です。意味は『自由に出品できて、審査(シンサ)も授賞もおこなわない美術展覧会。また、その出品作家』とあります。
ですから、「○○アンデパンダン展」というのは、自由に出品された優劣のつかない展覧会ということになるのでしょうか。しかし、いろいろ調べていくうちに、ちょっとこの定義に合わなそうな『アンデパンダン賞』なるものを見付けてしまいました。
アンデパンダン賞なるものは、現代舞踏にも絵画にもあるみたいですが、言葉の定義をそのまま受け止めると、こういう言葉のついた賞があること自体おかしいということにもなってしまいそうです。
言葉の定義だけなら確かに書かれている通りなのでしょうが、あらゆる権威から解き放たれた瞬間があったとしても、そこから時間が経てば、それが新しい権威となっていくこともまた事実なのです。そういう意味では、まさにルネサンス(1394ページ)のように「芸術上の運動」とでも定義し直した方が実情には合うのかも知れません。
★0028.デザート対決(2004.6.29)
今はデザートと言うよりも「スイーツ」(掲載なし)の方が定着しつつありますが、実にいろいろな種類がありつつも、どこまで国語辞典に載るのかというのは関係者でなくとも気になるところです。
第五版から初採用となったのが「杏仁豆腐」(44ページ)ですが、これなどはもはや定番中の定番という感じもしたものの、どういう経緯で掲載されたのかいろいろ物語がありそうでもあります。そんなことを考えると、世間一般に浸透していると思われるデザートということでいろいろ探してみたところ、「ティラミス」も「ミルフィーユ」も掲載がありません。しかし、なぜか同じく第五版から掲載されたデザートに「ナタデココ」(927ページ)がありました。もしかしたら新しい編者は、中華風デザートがお好みなのかとも思いましたが、まさかナタデココがここまで廃れるのかということも予期せぬことだったのかも知れませんね。改めて言うまでもないことですが、どういうことをもって言葉が普及したかという判断は非常に難しいものです。
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