98年6月
- ETV特集(NHK教育・98.6.30放送)
今回の題名は『作家・辺見庸 世紀末の風景 見えない貧困 ”ニュープアの若者達” 買い物症候群』というもの。テレビ論をやることについての難しさというのは、一回こっきりしか放送されないのがテレビというものだから、見ていないとどうしようもないのですね(^^;)。まあ、一回こっきりだと思っていい加減に作ってしまう場合もありそうなんですが、さすが教育テレビという作りになっていました。ちょっと長くなりますが、番組の流れから書いていくことにしましょう。
辺見さんの著作といえば、共同通信で連載したものをまとめたドキュメンタリー『もの食う人びと』があります。最近、なぜかこの本をハウス食品のコマーシャルで見るような気がするのですが、確かレンジで簡単に作れるパスタのコマーシャルにあの本の内容は合わないような気がするのですが(^^;)。もしかして題名だけインパクトがあればよかったんですかねえ。まあ、この件は番組の内容にはあまり関係がないので(少しは関係ある?)このくらいにしておきます。辺見さんは東京の日雇い労働者の集まる街・山谷(さんや)で生活をしています。このところの不景気でドヤと呼ばれる簡易宿泊所の利用も落ち込み気味だそうですが、「ニュープア」とは山谷周辺に集まる人達のことではありません。新聞やテレビのニュースで見ると、失業率という数字があって、その数が過去最高になったという。失業率という言葉を聞くと、ヨーロッパ諸国の貧困にあえぐ人達のことが私などはつい頭に浮かんでしまうのですが、日本ではそんな風には見えない。ビンボー生活を楽しむのとは違う、なにかもやもやした貧しさがこの国を襲っているのではないか。そんなことから辺見さんは二人の若者にインタビューを試みます。
まず一人目は、33才のAさん(男性)。カードを四枚作り服を買いまくって出来た借金が200万。たまらず破産宣告をして、現在はたくさんの洋服に囲まれた中で、ネコだけが友達という生活をしているそう。服をたくさん買った理由は、みんなと同じことは嫌だという気持ちがあって、目立つ服を買い始めたのだといいます。しかし、じきにいろんなストレスが溜まってくると、買い物をすることによってストレスを解消するようになってしまいました。
もう一人は20才のBさん(女性)。カードは使っていないものの、一人暮らしをするようになって、収入と支出のバランスが取れず、部屋にはテーブルもなければ食器類もマグカップ一つしかありません。彼女はそのなけなしの一つを辺見さんに進めながら話します。お金がなくなっても、イザとなったら即金でできるバイトもあるのでそれほど深刻には貧困を考えることがない。給料は手取り14万だが、小さい頃からの生活のパターンを縮小することには堪えられない。高望みはしないが、洋服と旅行だけはゆずれないとのこと。携帯電話の通話料にしてもしかり。そんな経費が月に10万ほどかかり、残りの四万で一月の生計を立てようとするのですが、辺見さんが驚いたことには食費は切り詰めるべきもので、月に一万しか割り振っていないのです。「おいしいものを食べたくはないの」との問いに、「消化されれば一緒ですから」と答えるBさんの表情には特に変化はなく、ただけだるさだけが感じられるのでした。
二人に共通しているのは、消費をしてもその時だけ一瞬が満足で、あとはただただ退屈だということ。ギラギラした欲望というものとも違います。表面上をみんなと同じにするため、無理をしてお金を使っている部分は否定できないでしょう。だから本来なら生活に必要ないものに一番お金を掛けたりするというわけなのです。
ところで、政府は景気対策の一巻として「消費の拡大」なんてことを言っていますが、そんなことを押しつけられた世代がいろんな欲望を充足するためだけにお金を使うことを覚え、ニュープア層を形作っているのです。恐らくこの国を取り巻く状況はさらに悪くなることが予想されるから、彼らニュープア層がその貧しさを隠すだけの蓄えも許さない時が近く訪れるだろうと辺見さんは言います。中流意識の蔓延によってハングリー精神もない人達はどうやって生きていくのか。番組はそんな問題提起をしたまま終了しました。
番組の作り方から言えば、二人のインタビューをはさんで、辺見さんの話で構成したということになります。はっきり言って、この文章を書くためにメモを取りながら見ていたが別段困るようなことはありませんでした。テレビを肴にしていろんなことを考える。できればいろんな人と話し合う。そんなテレビの見方もたまにはいいのではないでしょうか。来月も、こんな調子でテレビについていついつ書いていくつもりでおりますので、どうぞよろしくお付き合いの程を。
- 報道特集(TBS・98.6.28放送)
たまたま翌日の新聞に、チョモランマに登頂した人が千人を超えたという記事を見つけた。世界一の標高を誇るチョモランマ(エベレスト)は世界各国の登山家の目標になり、今回の番組は還暦を迎えた男達が登頂に挑むというドキュメンタリーであった。ガイドの専門化やツアーの増加により、チャレンジする人達が増えてきたということの最も顕著な現象だと言えなくもない。しかし、現場は死と隣り合わせの世界である。そんな中にもテレビカメラは同行し、山頂での映像を送ってくる。そして私たちはそれを暑い室内で見ている。
何かおかしくはないだろうか。非日常であるものを日常的であるかのように錯覚させる力がテレビにはある。レンズの向こうでは何が起こっているのか、すべてを実感することは出来ないが、想像することは可能だ。無批判に切り取られた画像を現実の全てだと受け入れることなかれ。現実に昨年、知り合いのかたのパーティが遭難事故に遭い、死者も出ている。ドラマのようにすべてがハッピーエンドにはならないのだ。還暦のパーティの方々は、全員山頂のアタックを中止したが、実に勇気ある撤退だと思った。
- ウッチャンナンチャンの「ウリナリ」(日本テレビ・98.6.26放送)
いたいけな子供をだまして、ちゃっかり儲けているのが気に入らない。ポケビだかブラビだか知らないが、枚数が売れないとグループが解散になるだとか、100万人署名を集めないとCDが出せないとかそんなことを映像の演出で物語り仕立てに仕上げているのだが、冷静に考えてみればタイアップ企画の最たるものであり、最後にはハッピーエンドにけりが付くように計算されているのだ。昔路上で芝居をして、会社が潰れて在庫の山を抱えたから買ってくれと泣き落としで物を通行人に買わせる「泣き売」というだましのテクニックがあるが、テレビというマスメディアを利用しての商売の仕方は全くあこぎそのもののように思う。ポケビが可哀想と泣く子供や、何と自主的に路上に立って署名活動までやりだした子供たちの様子などを見ていると、あんなのはちっとも可哀想ではないのだ。世界にはもっともっと可哀想で、援助を待っている人達がいるのだということをなぜ親が教えないのか不思議に思う。170万あまりも署名が集まったそうだが(実際、この数字にも疑問符がつくが)、中にはテレビでのことを全部本当だと思って書いた子供たちも大勢いるのだろう。番組の制作をし、CDの製作で利益を上げる大人たちは、もっと違った夢を子供たちに見させることができないのか。ちなみにこの番組を制作している日本テレビは、例の夏休みになるとやってくる「24時間テレビ・愛は地球を救う」を作っている局だ。こんな局の主催するチャリティーに、私は絶対に寄付などしないよ。
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