2000年12月のテレビ
- 総決算生放送!大都会列島警察激録24時
(テレビ朝日・2000.12.25)
この番組に限らず、必ず民放局はこれと同じような題名(『警察』、『24時』など(^^;))を付けた特番を企画するのですね。で、内容はというと必ずしもといってもいいほど、現場の警察官の仕事振りを紹介し、警察官が如何に悪と戦っているかという印象を植え付けるものなのです。
別に私は警察で地道に働く人たちに恨みなど持っていません。むしろ個人対個人の関係で言えば尊敬できる人も多くいるのではとすら思っています。しかし、今日のニュースではあの新潟県警が毎年恒例となっていた県警十大ニュースの発表を、今年から廃止することに決めたそうです。それはとりもなおさず、今年発表したらあの少女軟禁事件での不手際についての事に触れないわけにはいかないからだということは私でなくてもわかることでしょう。番組では暴走行為を繰り返している少年たちを検挙する警察官の様子を放送してもいましたが、これについても手放しで少年たちに制裁を加える警察官を賛辞するのはどうかと思います。
たとえば南アフリカから送られてきた衝撃のニュース映像がありましたが、もはや抵抗するそぶりも見せない黒人を、白人の警察官たちが暴行しているような状況はアパルトヘイトを克服したかに見える南アフリカでも未だ解決されざる問題です。同じように少年たちの行動は確かに卑劣な行為ですが(実際家の近所でも暴走行為を繰り返す輩がいて大変困っている(;_;))、検挙のためなら大怪我をさせるほどに殴るような行為まで容認するようにならないとも限りません。罰は司法の場で受けるべきものであり、もしそういうことが起こったとして、現場で暴力を振るわれた少年たちは警察官や警察そのものへの憎悪を募らせることにはならないか。特に不祥事が多発する今の警察においては、今回テレビで見たようなやり方がそのまま賛辞されるべきなのか。司会者もゲストも警察賛辞の言葉ばかりで、もしかしてマインドコントロールを狙っているのかしらんと深読みもしてみたくなってしまうというものです。
結局のところ、戦前の『オイ、コラ』的な警察像から変わらずに20世紀から21世紀を迎えようとしているという感じですよね。特にこうした番組が飽きもせず作られ続けるところを見ると。個人的には20世紀の終わりとともに、その番組の作り方自体も再考していただきたいものですが。
- 詩のボクシング3
(NHKBS2・2000.12.8)
詩でボクシングをするとは、けんかの実況中継ではなく、お互いに自作の詩を朗読しあうというもの。しかし、10ラウンドでノックアウトなしというのは相当やっている人たちにはストレスになるというのが目一杯見終わった後の感想です。
今回対戦したのは、詩人の平田俊子さんと小説家の島田雅彦さん。島田さんの朗読はどことなく舞台に立つ役者という感じがし、彼の少年のような心が好きという女性ファンにはたまらないものであったといえましょう。対する平田さんはあくまで直球勝負。多少芝居がかったところがあるものの、見事な詩を訥々と朗読していきます。
結果は島田氏の辛勝で、チャンピオンは詩人から小説家へと移動しました。ということは、島田氏は次の戦いにも駆り出されるということになります。こういう形で詩が注目されるということは、全く詩を読まない人にとってはかなりの取っかかりになりますよね。ことに今まで島田氏の小説は読んでも詩集は手にしなかった人たちにとっては新鮮な感情があると思いますし。そういう意味では、今回平田さんの朗読した数々の詩から受けた言葉の印象というのは貴重でした。小説家の選ぶ言葉と詩人の選ぶ言葉というのはこれだけ違いがあるかと。
多くの人たちにとって『詩』というと、流行りのポップスに載っている詞がすべてで、そういうものに毒されてしまうと、つい携帯メールに画面で見るのも気恥ずかしくなるようなちんけな愛の詞を送信してしまうということにもなります。音楽にのせることでごまかしが利くようなものではなく、そこにある言葉だけで語るような『詩』を作っている人がいる。詩というとどうも学生時代の勉強でしか記憶がないという人には、ぜひ一度こうしたイベントを利用してその世界に触れてみるというのもいいかもしれませんね。
- BSスペシャル世紀を刻んだ歌
「ヘイ・ジュード」 (NHKBS2・2000.12.7)
『ヘイ・ジュード』とは有名なビートルズのヒット曲です。確か世界的に見ると一番売れたビートルズの曲だと記憶していますが、この番組はそれを裏付けるような東欧の国チェコでのこの曲の歌われ方について取材した番組です。
ビートルズは自由の象徴だったということは、今のリバイバルヒットで彼らの曲を聴いている人にはもしかしたら理解できないことかもしれません。なぜなら、私が高校時代の音楽の教科書には彼らの『YESTERDAY』が載っていましたし、学校の先生は少なくともビートルズを聴く人を不良扱いしませんでしたから。今から10ウン年前の(^^;)、日本ではビートルズが古典として受け入れられてしまった時代に、なお大きな輝きをもって歌われていたのがチェコというわけです。
もともと、この『ジュード』というのは、ジョン・レノンの前妻の子、ジュリアン・レノンのことです。ジョンがオノ・ヨーコと一緒になり、子供の目から見れば醜い愛憎劇が繰り返されることについて励ましの意味でポール・マッカートニーが書いた曲といわれていますが、チェコの歌姫、マルタは『ジュード』という言葉に『祖国』を置き換えて、独自に歌詞を変えたオリジナルの歌詞をのせて歌ったところ、当時60万枚の大ヒット。おりしもチェコはプラハの春から、共産党による暗黒の時代へと突き進んでいましたから、こうした歌を歌うだけでも生活はしづらくなります。マルタも歌手活動を中止させられ、苦難の時代を過ごしましたが、レコードを出してから20年後、若い学生の活動家が『ヘイ・ジュード』を国歌よりも親しみを込めて口ずさんでいるということを知り、愕然とします。
そもそも、ソ連の崩壊があるまで東欧諸国では不自由な暮らしが続いていて、自由に音楽も聞くことができないということが私たちには信じられないことです。そんな中、ビートルズの歌に願いを込めて歌い継がれていることなど、まさしく想像の外にあったわけです。裏番組では国内の歌謡祭の中継をやっていたようですが、日本の歌手の豪華な顔ぶれが束になって掛かっても、東欧の、日本ではほとんど知られていない歌手の歌う『ヘイ・ジュード』にはかなわないでしょう。音楽とは個人で楽しむものではありますが、口に出してスローガンのように叫ぶものとは違い、大勢で同じものを表現できるし、わざと曖昧にした歌詞からは様々な想いを読み取ることができるし、番組のコメンテーターが言ってましたが、まだまだ捨てたものではないという気もします。歌を生かすも殺すも、受け手としての私たちの心がけ次第だという感じでしょうか。
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