NHKの朝ドラマの影響で、にわかに注目を浴びている水木しげるさんですが、たまたまドラマを見ていて、水木しげる本人がトイレで猫と話すシーンが出てくるのを見ました。つい、今回紹介する『猫楠』と名の付いた南方熊楠の飼い猫(もちろんフィクションですが)を連想し、改めて『ゲゲゲの鬼太郎』ではなく、南方熊楠の伝記を猫の目を通して表現したこの作品について書いてみようと思った次第です。
朝のドラマではずいぶん穏やかに描かれていますが、水木しげるさん本人はもっととんでもなく世間の常識から飛び出している人だと私は認識しています。しかし、あくまで現代を生きる人であり、きちんとテレビの取材を受け、番組に出演しているところを見れば一応現代の常識は十分わきまえた上での変人(悪い意味ではありません(^^;))だと評価するところです。私自身、南方熊楠という人物の事を知り、詳しく書かれたものを読むにつけ、現代の基準である程度甘く見たとしても、一つのワクの中に収まりきれる人ではない事はおぼろげながらだんだんとわかってきました。ただ、人物の伝記として書かれる中で、どうしてもいい事しか書かれていない事が多いので、特に南方熊楠について、人物としての魅力をどの伝記も伝え切れていないのではないかという不満点を持っていたことは確かです。
この漫画を評価するサイトでは「下ネタ多し」という注意をされているところが多いのですが、実のところそれが南方熊楠という人物を語る上で絶対に外すことができないところであると私は思っています。猥談はもとより、その格好も裸の上に一枚引っ掛けただけの格好で外出し、正対して座った時など目のやり場に困ったという話もあります。水木しげるさんは、そうした熊楠の生き様を描ききり、息子である熊弥さんの精神病による悲劇まで描いています。多くの伝記では熊楠の最期の言葉は天井に咲いている紫の花(熊楠が見たであろう幻覚では?)は医者を呼ぶと消えてしまう云々とされているものが多いのですが、ここでもきちんと、野口利太郎に熊弥の事をよろしく頼むという意の事を叫んで絶命したと描いています。
あと、感心したのは熊楠の田辺時代の友人の事を多く描いている中で、誰にも区別なく接したところの中で、子供との交流だけでなく、周りから「あほ竹」と呼ばれている人物まで登場させ、その交流を描いています。知らない人がその様子を見たら、恐らく世界を舞台に活躍した学者だとは思わなかったでしょう。もう一つ私が感心したのは、弟の世話になりつつ自分は働かず、お手伝いさんまで置いて研究だけしている生活に批判を加えていることです。この作品の中のフィクションは熊楠の飼い猫である「猫楠」およびその仲間の猫たちであるのですが、金華猫という妖怪に「明治時代に飯のために働かない生活は許されないのでは?」と言わせた後で行方をくらませます。南方熊楠は大学予備門で夏目漱石や正岡子規、秋山真之と同期ですが、小説「坂の上の雲」には登場してきません。正岡や秋山のような人物を評価する人には評価に値しない人であるような人物ではありますが、それでもなお、大いなる魅力をかもし出す熊楠という人物があの時代にいたということは無視することができないのではないかと思うのですが。
しかし不思議なのは、熊楠が昭和天皇に進講した記念に妻と一緒に撮った写真を見るに、実に落ち着き払い眼光鋭い哲学者のような表情を見せ、水木しげるさんの漫画の中にいる南方熊楠と同一人物とはどうしても思えないぐらいの威厳に満ちていることです。私もそうですが、熊楠の写真だけを見ると、ただ単に立派な人物であったと思ってしまいますが、とてもその一言だけでは語ることのできない魅力を熊楠は持っています。そうした事を十分調べ上げた上で水木さんはこの作品を描かれたのかと思うと、かなり熊楠という人物に思い入れがあったのだろうなと思ってしまうのです。
私はこの作品をミスターマガジンに連載されている時から読んでいて、今持っているのはミスターマガジンで出た単行本上下ですが、下巻の最後に熊楠進講記念の写真とともに、もう一枚の記念写真が掲載されています。1991年紫綬褒章受賞記念に、わざわざ田辺新地まで出向いてかの「ゲゲゲの女房」と一緒に移した水木しげる夫妻の写真です。妖怪について研究していたという共通点だけでなく、夫婦二人の絆の強さであるとか、その生きざまについて、水木しげるさん自身がかなり南方熊楠という人物について思い入れが強かったであろうことが想像できます。水木しげるさんの評価については、妖怪・怪奇漫画であるとか戦記漫画については多く語られているだろうと思いますが、この『猫楠』は異色ではありますが、私は水木さんの代表作だと思いますし、文字による伝記を超えた伝記漫画として位置づけられるものだと思っています。もちろん、この一冊だけで南方熊楠の全てが描かれているというわけではありませんが、漫画の中の熊楠をそのまま当てはめて熊楠についての資料を読んでいくと、何か新たな発見ができそうな気がします。(2010.8.19)
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